ああ、そなた近くにあれば、

そなたを恋うべからずと感ず。

ああ、そなた遠くにあれば、

我いとも深くそなたを恋うるを感ず。


「シュタイン夫人へ(ああ、そなたの)」後半部分 詩集『ゲーテ詩集』より
作:ゲーテ Johann Wolfgang von Goethe 訳:高橋健二

とても感傷的なオッサンだと思います。>ゲーテ
この詩を読むと
京極夏彦『嗤う伊右衛門』を思いだしたり。
とにかく恋愛物は焦らしがあったほうが面白いですよね。







夜のとばりが青くひろがり
やっと僕は落ち着いて呼吸ができる
だれもいない
だれもいない
だれもこない

あけはなった窓から
びゅうびゅう風がふいていく

夜のとばりのただなかへ
つかのま とびだしていく自由な心が
ちかっと光り また消える

笑ってるように見えるだろう


「夜のとばり」 詩集『小さな手紙』より
作:銀色夏生

笑ってるように見える→でも本当は笑うような気分ではない(反語)。
こういう「○○だけど××」とか「○○なのに××」といった
感情をストレートに顔には出さない表現が好きです。
でも例外的というか逆説的?なものって王道なものが多くある中で輝くものだから
「嬉しいから笑う」という描写9に対して素直じゃない表現が1
くらいの割合でなければ、双方の良さがいかされないんじゃないかと思います。
素敵なものを素敵に描くためには、その何倍も、
それ以外のものを書く必要があるという。めんどくさいですね〜。







ある晴れた日に
と おまえはいう
きれいなせりふだけど
あいにく
この水は苦くて呑めない
だから
かんじんなのはネ
笑いだすことだ
真実
腹のそこから
憎みあっているのだもの


「十月」 詩集『会田綱雄詩集』より
作:会田綱雄

愛憎は紙一重ということで。
高河ゆん『ローラカイザー』で性格のいい娘に描かれているヒロインが
「愛と憎しみでは憎しみのほうが強いと思う。
だって好きな歌手がでてる番組でも嫌いな歌手がいたら消しちゃうもん」
みたいなことをいってたのが印象に残っています。
それで悪役?にくっついてる彼女のほうが「愛のほうが強い」って考えで。
(いいキャラ描写ですよね。
正統派ヒロインは正論しかいわない世界よりずっと好きだ。リアルだし。
本人は「正統派としてふるまおう」なんて考えてないんだからさ)
好き≒嫌い>>>こえられない壁>>>興味なし
って感じですかね〜。







天上天下にあまねく扉のようで 愛は Defense of your complex
愛されたいのと愛とは違うから うまくいかない 世の中は

恋と愛 永遠の愛 自己犠牲愛
応え来ないほど 悲しいほど 濃くなるもの

Everyone loves Love 愛しているぜベィベ of course I'm kidding !
loves Love この響きに弱いだろ オマエら
loves Love 言葉だけでも crazy Even if spite is hidden,
loves Love 最終兵器ないと 不安なだけさ

本当の愛が見返りを求めないなら 希望(ゆめ)はどこからエゴイズム

倒錯愛 自己愛 純愛 略奪愛
いつか踏みつけられ 拒絶され 呪縛になる

Jesus loves Love 愛(?)されてるぜベィベ Without any reason,
loves Love オマエは誰を愛してるの?
loves Love 逃げられるかな flenzy Even if Love is poison,
loves Love 求められてる愛 時に地獄

人類愛 仕事への愛 Defense of your complex
家族への愛 民族の愛 国への愛

Cosmos loves Love 愛されたいぜベィベ of course I'm kidding !
loves Love この響きに弱いだろ オマエら
loves Love 言葉だけでも crazy They're only empty words but,
loves Love そこで終わりは映画だけだ
loves Love 喜ぶのは早いぜ It'll cut like a sword but,
loves Love 告白からが drama 始まるのさ


「LOVE ≒defense of your complex」 アルバムCD『LIVING LEGEND』より
作:デーモン小暮

歌詞はメロディの効果が大きくて
文章を単体で読むと詩の体裁になってないことが多いと思うんですけど、
これは手堅い構成になってますよね。
Everyone→Jesus→Cosmosとスケールアップしていくのとか
愛しているぜ→愛(?)されてるぜ→愛されたいぜ と微妙に変化していくのとか。
最後になんか前向きっぽいこといってるけど、いかにもとってつけたようです。
世界を上から見下ろす阿含のイメージでした。







そしてお前は待っている 待っている ひとつのものを
お前の生命(いのち)を限りなく増してくれるものを
力強いもの 異常なものを
石の目ざめを
お前に向けられた深みを

書架のなかで金と茶色の
書物がたそがれてゆく
そしてお前は思いだす 通りすぎてきた国々や
ものの象(すがた)や 再び失った女たちの
衣装のことを

すると突然お前は悟るのだ これだったのだと。
立ち上ったお前の眼の前には
過ぎ去った一年(ひととせ)の
不安と形姿と祈りがある


「回想」 詩集『リルケ詩集』より
作:リルケ Rainer Maria Rilke 訳:富士川英郎

さんざん捜しまくった幸せの青い鳥は、じつはすぐ近くにいたんだよ、みたいな?
“個人の幸せ”至上主義というか。
そういうのって性格もあるけど、どちらかといえば年齢に左右されるものだと思いますがどうか。







無論
人間は
ゼッタイ天使にはなれない
なれないのに
なぜぼくはなろうとして
あんなにもがいたんだろう
おかげで
痛い思いもした
傷跡もある
(と ここでいっておきたい)
しかし
天使の演技なら
いまでも完璧にできる
まさに天使のごとく
やさしくふるまうことができる
つらいのは
それこそ懸命に
天使の身ぶりをしているとき
地獄の耳に
天使の心音がきこえてくることだ
意地の悪い
あの心音がきこえてくることだ


「天使との関係」 詩集『会田綱雄詩集』より
作:会田綱雄

「人間は天使でも悪魔でもない。
しかし不幸なことに、天使になろうとすると悪魔になってしまう」
という昔の哲学者の言葉を思いだしますね
(直訳すると“悪魔”ではなく“獣”らしい。キリスト教圏ですから)。
天使と悪魔のカップルって萌えませんか?
私がヒルまもを好きな理由はそれだな。まもりは単体だとかなり嫌いなタイプだし。
雲水と阿含も「天使と悪魔」系ですが、雲水が素で天使なのではなく
無理だと自覚してるのにそうあろうと求め続けてる感じなのが高ポイントです。







お前は歌うな
お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな
風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべての物憂げなものを撥(はじ)き去れ
すべての風情を擯斥(ひんせき)せよ
もっぱら正直なところを
腹の足しになるところを
胸先きを突き上げて来るぎりぎりのところを歌え
たたかれることによって弾ねかえる歌を
恥辱のそこから勇気をくみ来(きた)る歌を
それらの歌々を
咽喉(のど)をふくらまして厳しい韻律に歌い上げよ
それらの歌々を
行く行く人々の胸郭にたたきこめ


「歌」 児童文学集『明治・大正・昭和詩歌選』より
作:中野重治

「返信」にも書いたんですが
阿含が雲水のことをこんなふうに思ってたらいいな、という詩です。
創作をするうえでも、安易に虚無感に逃げるのは簡単ですし。







深夜あなたはそこにいて

私はなぜかここにいる

犬なら遠吠えするのに

小鳥ならとんでいけるのに

猫なら家をすてるのに


「深夜あなたはそこにいて」 詩集『すみれの花の砂糖づけ』より
作:江國香織

やっぱりリズムがイマイチかなって気もするんですが。
定型詩を書いたらいいよ、この作者は。







退屈だから ゲームをしよう

憎い人を愛するというゲーム

悲しい時に笑うというゲーム

嫌いな人にやさしくするというゲーム

気のあわなそうな人と恋をするというゲーム

ゲームだからゲームらしく 楽しくね


「ゲーム」後半部分 詩集『雨は見ている 川は知ってる』より
作:銀色夏生

阿含が思ったことをそのまま実行するのとは対照的に
雲水は思ったことと反対のことをしたり言ったりしそうだな〜と思う。







ごらん ふたりが同じ出来事を
別々に身につけ べつべつに理解するのを
それはまるで異った時間が ふたつの
同じ部屋をよぎってゆくかのようだ

お互に 疲れて もたれあいながら
ふたりは相手を支えていると思っている
けれども 血に血を重ねているふたりは
お互になんの役にもたたないのだ

むかしのように やさしく触れあい
ふたりが並木道にそって
手をとりながら とられながら 行こうとしても
ああ ふたりの歩みはもう同じではない


「姉妹」 詩集『リルケ詩集』より
作:リルケ Rainer Maria Rilke 訳:富士川英郎

大好きリルケ。この理屈っぽさ。
描く対象が景色だろうが他人だろうが自分だろうが
傍観者のスタンスを崩さないところが良いです。







誇りを一つ捨てるたび

我等は獣に一歩近付く

心を一つ殺すたび

我等は獣から一歩遠退く


無題 コミックス『BLEACH』13巻より
作:久保帯人

更木剣八さんを詠った詩。やちるとセットで好きです。
自分がなにをしたいのかよくわからなくて悩んじゃうタイプよりも
エゴが強すぎて困ってる人のほうが共感できるかな。







怒りもなく 憎しみもなく 屠殺夫のように、
また岩を打つモーゼのように、俺はお前を殴るだろう。
俺はお前の眼瞼から 俺の心のサハラ砂漠を潤すために
苦悩の水を 湧き出させよう。
希望を孕んだ欲情は
沖を目指して滑り出る船さながらに
しおからいお前の涙の上を漕いでゆくだろう。
そして涙に酔いしれる心の中で お前の可愛い啜泣きが
突撃を打つ太鼓のように鳴り渡ろう。
神聖な交響楽の中にあって
俺をゆさぶり 俺を噛む 貧焚きわまる「皮肉」により、
俺は外れた不協和な音となってはいないのか。
甲高い「皮肉」は 俺の声の中にある。
この真黒な毒汁は 俺の血であり
鬼のような女が顔を映して眺める陰惨な鏡は 俺だ。
俺は 傷であって また 短刀だ。
俺は 殴る掌であり 殴られる頬だ。
俺は 車裂きにされる手足で また裂く車だ。
犠牲(いけにえ)であって 首斬役人だ。
俺は 自分の心臓の吸血鬼――永遠の笑いの刑に処せられて
しかも微笑することも最早できない あの偉大な
見棄てられた人たちの中の一人だ。


「我とわが身を罰する者」 詩集『悪の華』より ※旧仮名旧漢字を勝手に修正
作:ボオドレール Charles-Pierre Baudelaire 訳:鈴木信太郎

ドメスティックバイオレンスはよくないです(当たり前)。







見飽きた。
夢は、どんな風にでも在る。

持ち飽きた。
明けても暮れても、いつみても、街々の喧噪だ。

知り飽きた。
差し押さえをくらった命。
――ああ、『たわ言』と『まぼろし』の群れ。

出発だ、新しい情と響きとへ。


「出発」 詩集『地獄の季節』より
作:ランボオ Jean-Nicolas-Arthur Rimbaud 訳:小林秀雄

この乾いた感じはもうハードボイルドといっていいと思う。かぁっこいい。
詩ってさ、受っぽいのは結構あるんですけど、攻っぽいのは貴重だと思います。







道はどこへでも通じている

美しい伯母様の家へゆく道
海へゆく道
刑務所へゆく道
どこへも通じていない道なんてあるだろうか


それなのに

いつも道は僕の部屋から僕の部屋に
通じているだけなのである

群衆の中を歩きつかれて
少年は帰ってくる


「道」 詩集『失われた墓碑銘』より
作:黒田三郎 

これまた阿雲に限らない一般的な気持ちを詠った詩ですね。
「僕」という一人称なのに、最後になって三人称になってしまうのは
詩を書くうえではOKなんでしょうか。







いま、なかば消えかけた想いの閃きと、
おぼろでかすかなさまざまの識別と、
いくぶんかは悲しい困惑とともに、
昔の私の心の姿が蘇ってくる。
たしかにいまの私は昔この丘に来たときの私ではない。
私はまるで愛の対象を求める者というよりも
怖いものから逃れ去る者であった。
あの頃の私は何だったのか、表しようもない。
轟々たる滝の音が情念となって私にとりついた。
聳え立つ岩、山、奥深く小暗き森、
それらの色と形はあの頃の私にとって、
欲望であり、感情であり、愛であり、
思考を媒介としたよそよそしい魅力は必要とせず、
それらが興味深いのも視覚ゆえ。
あの時代は去ってしまった、
あの頃の疼くような喜びはもはやなく、
目眩く歓喜ももはやない。
そのことで消沈せず、悲しまず、かこつこともない。
天からの別の賜物が授けられたのだから。
喪失に対しては充分な償いがあると信じよう。
なぜなら私は自然を
無分別な若者の頃とは違う目で見ることを学んだ。
しばしば私が聞いたのは人の奏でるあの静かでもの悲しい音楽、
それは耳障りでも不協和でもなく、
心を鎮め和らげてくれる力に満ちていた。
それは湧き起こる衝動であり、精神であり、
思考する主体と、思考の対象すべてを促し、
万物のなかを駆けめぐる。
それゆえに変わることなく私は愛し続ける──


「ティンターン修道院上流数マイルの地で」 詩集『対訳ワーズワス詩集』より
作:ワーズワース William Wordsworth 訳:山内久明 ※勝手に中略&改行変更

昔と変わらない景色をみて自分が変わったことを実感する詩。
くどい。かなり中略したけど、それでもダルイ。
原文がついてるんだから自分で訳せばよかったです。英語なんだし。
つい忘れがちですけど、双子は十代なんですよね。
まだまだ発展途上ですよね。
何年も前と同じような出来事が起きて今度は違う選択をする、というのは
個人的に好きなシチュエーションなので、よくやります。







背中には
何かしら
書いてあるような気がする

わたしにはその文字はわからぬ、
しかしわたしがうまれるとすぐに書かれた
わたし自身の番号のような気がする。

そうだ、わたしの生の番号かもしれない、
否それは死の番号かもしれない。

わたしにはただ
ふしぎな「夜の詩」のような気がするが、
まだ読んで見たことはない。

何(な)ぜなれば、そこはわたしの知らぬところだ、
魂のちょうどうしろだ、
外だ──

そしてあまりに遠いから、
暗いから。


「後ろ」 児童文学集『明治・大正・昭和詩歌選』より
作:加藤介春

“うまれてすぐに書かれた番号”だってさ……なんて阿雲なキーワード。
あの双子は順位とか気にする性格かな〜と疑問に思うこともあります。
どうかな……スポーツやってる人ってみんなそうなのかな。







耐えるということを覚えた

この恋を忘れるために

この苦しさに耐えなければ

むくわれない恋を

なぜしてしまったのだろう

この恋が どんな意味をもつというのだ

忘れたい 忘れなければ

忘れられない とても


「耐えるということ」 詩集『ロマンス』より
作:銀色夏生

阿雲に限らずなんにでも使えそうな……一般的な気持ちを詠った詩ですね。
どうしてこんなに読みやすく憶えやすくて印象的なのか分析しようとするんだけど
よくわからない。







ぼくが小鳥になれば
あらゆる明日はやさしくなる
食卓では 見えないが
調和がランプのようにあかるい
朝 配達夫は花園を忘れる
歳月を忘れ
少女は時を見捨て
ぼくには 空が青いばかり
そこに世界はあるだろう
新しいすべての名前たちもあるだろう
だがしかし 名前の外側では無窮の不幸もあるだろう
小鳥となるな
すくなくとも ぼくはなるな
手で触れてみない明日のためには


「ぼくが小鳥に」 詩集『われに五月を』より
作:寺山修司

内容はなんかよくわかんないんですけど(社会的な姿勢を意味しているのかなあ)
雰囲気というか余韻が好きで、
この空気の中に双子を立たせてみたいと思ったのでした。







私のからだはバラバラで 包帯じみた屍衣をまとう
心臓にはあらゆる色の針が刺さり
からだの外までとびだしている

私の眼には魔力があって 多くの者を惹きつける
この視線を浴びせただけで こころの底まで支配する

操られた偶儡たちには 遠い異国の者もいて


それでも私は この呪いから逃れられない

だれかが私に近づいて 私との距離をつめるたび
心臓を突き刺すこの針が ますます深く私を貫くのだ


「ヴードゥー・ガール」 絵本『オイスター・ボーイの憂鬱な死』より
作:ティム・バートン Tim BURTON 訳:あたくし

この絵本を元に造られたウェブアニメがとてもよく出来ています。
プレイボタンが表示されるまで時間がかかるのが玉に瑕。
ティム・バートン監督は、おたくだなあ。大好きです。







餌食になる日を待つ 繰り広げるSIMULATION
悲しみでも喜びでもない 涙を使えるように

OH, Look Up 継続を願えるはずはなく
OH, Look Down 生理的に受け付けないさ

つま先立ちで仰ぐ 天井は蟻地獄
誰もそこへは行けず 苦しい顔するけれど

OH, Look Up 上を見下す幼稚さで
OH, Look Down 下を見上げるまぬけさで 囁いた

Feeling High & Satisfied 選び当てた自由は
例える事さえ出来ない 堕落してるスピードから
Feeling High & Satisfied 不安はそこにはない
体感した名声まで 忘れてしまえる恐怖を

気付けばある夜から 鏡を見なくなってた
触覚だけ残して 外形は消え去ろう

OH, Look Up 他力を借りてしまえたら
OH, Look Down 遊び程度にやれたなら 楽でしょう

Feeling High & Satisfied 取り返した自由は
リピートするほど孤独で 計算した冷血から
Feeling High & Satisfied 遠く近く触れない
タイトロープを渡るより ぶらさがって揺さぶれたら

Feeling High & Satisfied 選び当てた自由は
例える事さえ楽しい 重圧なプレッシャーから
Feeling High & Satisfied 不安はどこにもない
怖いくらいに幸せで ときおり蛇の夢を見る


「Feeling High & Satisfied」 アルバムCD『BABYLON』より
作:清春(SADS)

(歌詞ですよ……キケン!キケン!)
全体に、空に墜落するとでもいいたくなるような不安定感で貫かれ、
不安はないといいながらなにかしら影がさしているのを
抽象的な言葉あるいは感情を表す言葉ではなく
「蛇の夢を見る」という具体的でインパクトのある特殊なイメージで表現しているのが
素晴らしいと思います。
(以上、批評のための引用は著作権法で認められている的まじめな感想でした)
ちょっと爛れた雲水って感じですかね。
ぶっちゃけると人気が落ちることを怖れる歌手の歌なんで、
それに気づいちゃうとほかの意味を見いだしにくくなるかもしれません。







もう冬ではなく
まだ春ではなく


そこは階段の
おどり場のような場所



でも
永遠の見はらせる
場所だった


「放課後」 コミックス『卒業式』より
作:榛野なな恵

モラトリアム。
なんか気持ちが通じ合っちゃってるのは知ってるんだけど
幸福な未来の展望はどこにも開けない、でもいつまでもこのままではいられない
みたいなときの双子を想像して。
開き直ったらどうとでもできちゃいそうな感じですけどね
ふたりとも。あたまいいし。







ぼくがつきをみると

つきもぼくをみる

かみさま つきをおまもりください

かみさま ぼくをおまもりください


絵本『マザーグースのうた』より
訳:谷川俊太郎

月にみられると神さまの庇護がほしい気分になると?
いろいろ考えちゃいますねえ、詩は深読みしてなんぼですからねえ。
これは訳の勝利だと思います。原文は原文でいいんだけど。
I see the moon, And the moon sees me;
God bless the moon, And God bless me.







寂しい夜の海ぎしに
若者が一人立っている。
胸には愁いが充ちており、頭は懐疑で一杯だ。
若者は憂鬱な声で波に問う。

「人生の謎を解いてくれ。
一番古いむつかしい謎を、
エジプトの僧の頭巾を冠った頭、
ターバンを巻いた頭や、黒の縁無し帽をかぶった頭、
さては鬘(かつら)をつけた碩学の頭や、
その他無数の人間の哀れな汗ばんだ頭が
考えあぐねたあの謎を。
いったい、人間の意義とは何だ?
人間はどこから来て、どこへ行くのだ?
あの天上の、金に光る星々には、何者が住んでいるのだ?」

波は果てしない呟きをくり返し、
風が吹き、雲が飛び、
星々は光る、無関心に冷たく。
そして一人の愚者が返事を待っている。


「問い」 詩集『ハイネ詩集』より
作:ハイネ Heinrich Heine 訳:片山敏彦

人はどこから来て、どこへ行くのか……という、よくきくフレーズの
元ネタはこれなんでしょうかね。







軋むほどに しきつめられた
爪のような空気の下

空を見上げるたび
自分が世界に閉じ込められていることを知る







あの空が崩れ落ちてしまえば
どこまでも飛んでゆけるのに


無題 コミックス『ZOMBIE POWDER.』4巻より
作:久保帯人

大空に閉塞を感じちゃうところが素晴らしいと思いませんか!







たったひとつぶのさくらんぼで

一生涯生きていかれると思っているの?

たとえあのひとつぶに

幾億の夜がとじこめられていようと

この世のすべての真実がこめられていようと

たったひとつぶのさくらんぼで


「アメリカンバーのさくらんぼ」 詩集『すみれの花の砂糖づけ』より
作:江國香織

感性はさすがなのに言葉の並べ方がどうもヌルイ。







わが撃ちし

鳥は拾わで帰るなり

もはや飛ばざるものは妬まぬ


「真夏の死」 歌集『空には本』より
作:寺山修司

1.阿雲。進退きわまった雲水が阿含を殺してしまい
そしたら急にすべてがどうでもよくなってフラフラと去っていく。失踪。
2.阿→雲。思い通りにならないのにムカついて動物に八つ当たり。
でも手に入ってしまったらそれはそれで不満だったり。
3.阿←雲。同じく動物に八つ当たりする雲水だが
転がった死体をみて自己嫌悪と絶望で一杯になって立ち尽くす。
……などなど
あらゆる妄想を繰り広げてしまいました、こんな短歌一本で。







私 知ってるの
どうしたら みんなが
私に優しくしてくれるか

私 笑えばいいの
笑って うなずけばいいの

でも
私 知ってる
そうしたら何もかも
おしまいだってこと

私は どこにも
いなくなる


「四月は銀の王国(くに)」 コミックス『あした、船にのって…』より
作:榛野なな恵

女の子のジェンダーに依る言葉なんで阿雲には不似合いかも。
20年前の作品ですよ、
この作者の描くテーマがまるで変化してないのには驚きです。いっそ感心。
揺るぎなく、優しくて強くて選民的。







雪ふり
雪つもり
わたくしはわたくしの
あなたはあなたの
火を掻き立て
わたくしはわたくしの
そして
あなたはあなたの
無を見すえる

うずくものは
わたくしたちがそれを生きてきた夢であり
わたくしたちを支えるものは
生傷である

雪ふり
雪つもり
足跡はきえない


「一つの序詩」 詩集『鹹湖』より
作:会田綱雄

真っ白な雪原を手をつないだ双子が歩いていて、ふと
足跡をふり返る雲水(やっぱり雲水なのか)という光景が浮かぶわけです。







小さな子供が怯えてる

恋人がやってくるのがおそろしい

ベッドに入って布団をかぶり

鉄串をつかって扉に錠を


英語圏の童謡『マザーグース』より 訳:あたくし

本当は怯えているのは小さなメイドさんなんだけれども
she とか her とか見ないふりしました。
リズムを整えようとするといつのまにか七五調になってしまいます。







あれはとおい処にあるのだけれど
おれは此処で待っていなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱の根のように仄かに淡い

決して急いではならない
此処で十分待っていなければならない
処女(むすめ)の眼のように遙かを見遣ってはならない
たしかに此処で待っていればよい

それにしてもあれはとおい彼方で夕陽にけぶっていた
号笛(フィトル)の音のように太くて繊弱だった
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待っていなければならない

そうすればそのうち喘ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違いない
しかしあれは煙突の煙のように
とおくとおく いつまでも茜の空にたなびいていた


「言葉なき歌」 詩集『在りし日の歌』より ※旧仮名遣いを勝手に修正
作:中原中也

ぶっちゃけ、これは
フェラチオされてる男性の気持ちでも描いてるんじゃないかと思う。







きつねは知っている
この日当たりのいい枯野に
自分が一人しかいないのを
それ故に自分が野原の一部分であり
全体であるのを
風になることも 枯草になることも
そうしてひとすじの光にさえなることも
狐いろした枯野の中で
まるで あるかないかの
影のような存在であることも知っている
まるで風のように走ることも 光よりも早く走ることもしっている
それ故に じぶんの姿は誰れにも見えないのだと思っている
見えないものが 考えながら走っている
考えだけが走っている
いつのまにか枯野に昼の月が出ていた


「きつね」 児童文学集『明治・大正・昭和詩歌選』より
作:蔵原伸二郎

男の子キャラをケモノ化もしくは獣人化させるなら
猫系よりも犬系のほうが個人的には萌えだな、っていう話ですよ。







それは風の吹きすさぶ高原だった
恋人はからっぽの心で日の光をあびていた
恋人は そのような人だった
僕はいつものように「考え」にがんじがらめになっていた
僕は幸せな気持ちになった時にも
幸せとは何かということを考えて
考えすぎてそのために不幸になることが多かった
恋人は 僕の思考の中までははいってこない
僕は 僕の運命とたたかうけれど
そのことではつらくてもどうでもいいのだけど

この恋人がいなくなっては困ると思う


「恋人と高原」 詩集『ロマンス』より
作:銀色夏生

乙女すぎるよ銀色夏生。
でも言葉の使い方は好きだなあ……やっぱ詩は平易なのが良いです。







久遠と罪を連ねて生きよ
その罪 拭わんとせば
善人なをもて魂の報われざる
いわんや 罪人(とがびと)をや


生く事のまほろばを求め
生く事の汚(けが)れを知る
生く事の寄辺なさは
ただ春の夜の散華の如し


「詠の一」「詠の四」 コミックス『無限の住人』より
作:沙村広明

むげにんですよ、むっちゃ好きです。
手とび足とび頭とび、胴体まっぷたつだ〜! みたいな。
7巻に登場する宇留間と花田が、雲水と阿含にみえて仕方がない。
やられ役だけど(笑)。







茶色の眼の天使のように、お前の閨に戻ってこよう。
夜の闇と共に音なく、俺は、お前の傍らに滑り込もう。

そして、我が栗色の肌の恋人よ、
月のように冷ややかな接吻と
穴のまわりを這い廻る蛇の愛撫を与えよう。

鉛色の朝が来る時
俺の居た場所が蛻(もぬけ)の殻だと解り、
晩まで冷たいままだろう。

他の男が愛情で、お前の命と若さとを治めるように、
俺は恐怖でお前に君臨したいのだ。


「幽霊」 詩集『悪の華』より ※旧仮名旧漢字を勝手に修正
作:ボオドレール Charles-Pierre Baudelaire 訳:鈴木信太郎

この人のエロ系の詩はみんな女性の恋人を描いたものなので
女という言葉が含まれないのを選んでみました。
きっとフランス語の詩の作法に則った作品だと思うんだよね……。
言語に依存する部分が多いから詩は原文で読まないとダメなんだろうな。







ある瞬間 我々に距離はない
ともに剣を握り 生きるために殺し
いつか死すために殺し

我々は遠く隔たっている
肩をならべて星を眺め べつの友を想い
祈る

我々の距離は変化する
互いに剣をむけ 肉を裂き 血を流し 傷痕に指を這わせ
赤く染まった頬をなめ

我々の間には距離がある
決して縮まらない
離れることもない


スイマセン自作です、阿雲のために書いたものではないのですが……。
好みの関係の在り方って変わらないんだな〜と。
某創作系投稿サイトで「距離」というお題で投稿したものでした。






いてはならないところにいるような
こころのやましさ
それは
いつ
どうして
僕のなかに宿ったのか
色あせた夕焼け雲のように

大都会の夕暮の電車の窓ごしに
僕はただ黙して見る
夕焼けた空
昏れ残る梢
灰色の建物の起伏

美しい影
醜いものの美しい影


「夕焼け」 詩集『小さなユリと』より
作:黒田三郎

この詩は阿雲というよりは単に好きだからって理由で……。
私が自分の意志で詩集というものを買い求めたのは、この人が初めてでした。







どっちにしても生活は生活だ。──地獄の責苦に
終りはないとすれば。
みずから不具を希(ねが)うとは、
まさしく奈落の男じゃないか。
俺は自分が地獄にいると信じている、
だから俺は地獄にいる。
カテシスムの実行だ。俺は自分の受けた洗礼の奴隷だ。
両親よ、
貴方が俺の不幸を作ったのだが、貴方もまた、
御自分の不幸を作ったのだ。
想えば不憫なお人よしだ。
──相手が外道では地獄も手がつけられまい。
──どっちみちこれも生活だ。
ゆくゆくは、
計り知れない責苦の心地よさも覚える事だろう。
兇行よ、急げ、
人間法則の命により、俺が非情の境に堕ちて行くために。


「地獄の夜」 詩集『地獄の季節』より
作:ランボオ Jean-Nicolas-Arthur Rimbaud 訳:小林秀雄

サイト名を頂きましたが、意味は不明です(苦)。
ランボオは非常に早熟の詩人で16才から評価される作品を書いています。
この年から家出を繰り返し、
パリで憧れの詩人ヴェルレーヌに出会うとふたりで2年ほど放浪します。
ヴェルレーヌ夫人は彼らの関係が不道徳であるとして離婚訴訟を起こし、離婚。
1873年7月10日、去ろうとするランボオをヴェルレーヌがピストルで撃ち、
出獄した後に再会したもののランボオが拒絶し、二度と会わなかったそうです。
ランボオの文学的生涯は
ヴェルレーヌと出会った頃に始まり、別れると同時に終わったといえます。
……なんというか、すべてが萌え。







著作権法 第三十二条

公表された著作物は、引用して利用することができる。
この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、
かつ、
報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で
行なわれるものでなければならない。


ネット書店にリンクを張ってますし、批評めいたことも書くよう努めますので
どうかご容赦ください。








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