ひなたのにおい



 肉を多く食べると体臭が濃くなるという話は本当だろうか。酒や煙草や不摂生により影響がでるとも聞いた。ならば野菜や魚介類を好み規則正しい生活を送り、なおかつ神経質なまでに清潔にしている兄は無臭に近いということなのか。阿含は布団を顔まで引きあげて鼻から息を吸いこんでみた。……布団カバーの洗剤の匂いと昼の日光の匂いがほとんどを占めるなか、微かに雲水固有の体臭を感じとることができる。己の口元に緩みきった笑みが浮かんだのを自覚した。
 眠りが浅いせいか基本的に寝起きの悪い阿含だが、まれに夢もみないほど熟睡すると、2〜3時間でスッキリとした目覚めがおとずれる。雲水ときたら骨も筋肉もやたらと堅いわ、体格が発達しているのでベッドが狭いわで、抱き枕として優秀とはお世辞にもいえないのに、女の家で泊まってくるよりもずっと安眠できるのだから、やはりそういった物理的な要素以外にもなにか大切なものがあるのだろう……たとえば匂いとか。
 早朝のいちばん冷える時間に目が覚めたのは久しぶりだ。隣にいるはずの温もりを探す。さして広くもないベッドのどこにも兄の身体はみつからず、ベッドの端に腕が到達してしまった。まだ少し重い瞼をゆっくりともちあげる。寒色系のカーテンを透かして白い朝日がさしこんでおり、寮の自室は澄みきった湖中のようだ。部屋の反対側にある阿含のベッドに見慣れた坊主頭のシルエットが横たわっている。阿含はわずかに眉をよせて小首を傾げた。昨夜は街でさんざん飲んで暴れて女をひっかけるといういつものコースをたどった挙げ句、寮の消灯時間をはるかに過ぎた頃に帰ってきて雲水のベッドにもぐりこみ、することをしてから眠ったのではないかと思う。うつ伏せた兄の背中に動きながら額をつけたらうっすらと汗ばんでいたのを憶えている。なのになぜ離れて寝ているのか。布団をのけて起きあがると震えが背筋を這いのぼり、同時に尿意を催したので、とりあえずトイレに向かおうとする。カーペットに足をついてようやく阿含は自分が全裸であることに気がついた。寒いはずだ。そのまま自室に備えつけられているユニットバスで用を足してからそこらに脱ぎ散らかされている自分の服を手にとり、しかし染みついた煙草の匂いに舌打ちしてクローゼットから新しい下着と着がえを引っぱりだした。Tシャツに首を通しながら兄の眠るベッドに腰かける。静かに座ったつもりなのに雲水がパチリと目をひらいた。
「ぐっもーにん」
 身をかがめて口づけようとしたら、大きな手のひらが眼前に広がり、驚くほど強いちからで押し戻されてしまった。予想外の反応に息をのむ。夜着がわりのスウェットを上から下まで鎧のように着こんだ雲水は寝起きとは思えないほど鋭い目つきで起きあがり、枕元の目覚まし時計を確認してスイッチを切った。
「……もしかして怒ってル?」
「ああ」
 声から露骨な不機嫌が滲みでている。雲水はベッドを降りると、こちらには目もくれずに朝の身支度を開始した。話しかけようにも背中に拒否されている。阿含は兄の着がえをしばしぼんやりと眺めた。
「えっと……やっぱ、おれのせい」
「当たり前だろう」
 ほんの数時間前のことを思い出そうとするが、飲みすぎたせいか、細部がかなり朧気である。
「なにやったっけ」
「知るか」
「……おまえがまだなのに、おれだけイっちゃったとか……?」
「それならマシだ、バカ」
 ものすごい勢いでカーテンが開かれた。透明な朝の光は雲水によく似合い、そして阿含には不似合いだ。鞄のなかの時間割を几帳面に再確認した兄はさっさと部屋を横切って扉をあける。
「ちゃんと登校しろよ」
 絶対零度の口調で言い捨てて、ふりむきもせず廊下へと消えていった。とりつく島もない。
「……わけわかんねえし」
 阿含は閉じられたドアの木目をいささか未練たらしく見つめ、口のなかだけで呟きをもらした。自分がなにかをしでかしたであろうことは阿含もよくわかっている。しかし雲水は苦言を呈するときには必ずどこがどういう理由で問題なのかを一分の隙もない正論でもって明確にしたうえ行動を改めるよう告げるのが常なのに、今回は説明もなければ謝罪もなにも要求してこなかった。兄らしくない怒り方だと思う。
「ま、いっか」
 阿含は大あくびをしながら身体を伸ばした。説教されるのもケンカするのも自分たちにとっては日常茶飯事だったからだ。

 ところが事態は想像したより遙かに深刻だった。
 雑誌にもメールにも飽き飽きし、CDをかけても歌詞を捕まえることができないような状態でカーペットに転がっていると、ようやく雲水がふたりの部屋に戻ってきた。横目で時計をちらりと見やれば、きっちり消灯5分前。あれから数日ずっとこの調子である。無視はされない。しかし兄の周囲には対阿含用のみえない有刺鉄線が張り巡らされていて、エレベーターに乗り合わせた他人のようにうちとけず、指一本ふれさせてはもらえないのである。歩行を邪魔する阿含の図体など目に入らないような素振りで手にしていたノート類を机の上に置き、平然と就寝する準備をする雲水。
「もう灯り消すぞ。CDをなんとかしろ」
「……てめえよぉ……」
「CD」
「はいはい、止めました」
「それじゃおやすみ」
 有無をいわさず電気が落とされ、室内が暗闇と静寂に包まれる。神龍寺高校は山奥なので窓の外からの光も少ない。
「いやまてよ、雲水。いいたいことがあんならハッキリしようぜ!」
「いいたいことなどない」
「嘘つけ」
「本当だ」
「だったらなにいつまでも怒ってるワケ?」
 常夜灯まで消されてしまい、まだ闇に目が慣れていないなか(サングラスをかけたままなのもあるが)、勘だけで雲水のベッドに近づいた。手をのばす。
「いでっ」
 兄の腕をみつけたと思ったら、即座にはたき返された。
「なんでー! なんでー!」
「眠い。寝ろ」
「おやすみのチューは?」
「しなくていい」
「てゆーか、セックスしたい」
「もうしなくていい」
 一瞬の間。
「んだ、そりゃあぁ!」
「大声だすな! 何時だと思ってる!」
 阿含は壁を手のひらで適当に殴って電灯のスイッチを探りあてた。白熱した光が視界を焼く。
「どおゆうことだよ、いわなきゃわっかんねえんだよ、理由を説明しろ!」
「理由なんかない。ただ、したくないだけだ」
 阿含が烈火の如く怒り狂っているのに対して、雲水は凍てついた紺色のオーラを吹き散らしている。決して相容れないそれらが空中で接触して化学反応を起こし、紫の電光を発生させた。地鳴りのような効果音が狭い室内を支配する。互いに無言で睨みあった。
 外見では均衡を保っているようにみせかけながら、阿含はすでに己の劣勢を悟りつつあった。マズイ。兄が本気でへそを曲げている。一年に一度あるかないかの危機的状況に陥っている。雲水は話が終わればもう二度と蒸し返したりしない淡泊な性格の奴だとチームメイトや友人には思われているようだが、それは、そうするべきだという理性が勝りそのとおりに振る舞えるだけであって、内心では犬のように憶えているし、ときにはいらぬ反芻をして記憶を強化してしまう。じつは根にもつタイプなのだ。そして熱しやすく冷めやすい阿含とは違ってひとつの恨みを人生終了までだって持続させることができる。その対象としてロックオンされてしまったら最後、こちらが大人の心で一方的に謝罪でもなんでもして水に流してもらうよりほかに解決は図れない。十七年のつきあいで嫌というほど学習済みだ。
 妙に底光りする奈落よりも暗い瞳に気圧されるようにして、阿含は一歩あとずさった。サングラスを外して姿勢を正す。
「わぁーったよ。おにいちゃんマジごめん。機嫌なおして」
「……なにを謝ってるつもりだ、おまえは」
「わかんねーけど、とにかく頭さげっからさ」
「無意味だな」
「っ、いい加減にしろ、このハゲ!」
 無理して装った冷静さは簡単にはげ落ちてしまった。布団に入って半身を起こしている雲水の胸ぐらを勢いよく掴みあげる。だがもちろん兄が阿含の凶悪な面構えに怯えることなど今さらありえないので、ただ寒々しい視線を投げかけてくるばかりだ。阿含は雲水をベッドに突き倒し、そのうえに覆い被さる。
「もういいよ。昔から夫婦ゲンカなんて一晩すごせば仲直りっていうしぃ」
「どこ触ってんだ、離せ!」
「ちゃんと気持ちよくするから」
「したくないって、いってるだろ!」
 雲水の渾身の蹴りが阿含の腹に深くめりこみ、部屋の反対側にあるベッドまで吹っ飛ばされる。とんでもない激突音が意外と壁の厚いこの寮内で向こう三軒両隣をこえて響き渡った。
「ぁにすんだ、この野郎っ」
「おまえが悪い!」
「いまの殺気がこもってたぞ!」
 阿含の左腕がうなりをあげ、兄の顔面にヒットする。雲水も負けじと殴り返し、よけられたとみるや肩から体当たりしてきて、もろともに倒れこんだ。あとはもう大乱闘である。隣室の住人がドアを叩き、寮監が召喚されて合い鍵が使用され、金剛兄弟ひとりにつき四名以上の人間がとりすがって、ようやく事態が沈静した。私物だけでなく備えつけの家具も破壊されているため、後日、賠償問題で面倒な書類を作成しなければならなくなった。もちろん兄に一任するつもりだが。
「どうもすみませんでした」
「うんまあ、君も大変だろうけど、静かにしてくださいね」
 愛想はないくせに外面のいい雲水が寮監をうまく丸めこんでお引き取り願ってくれた。部屋のドアが閉められて外界と遮断される。雲水は床に転がる椅子を戻してそこに腰かけ、溜息をついた。
「手続きは明日にでもやっておく」
「……んなことはどうでもいいんだよ……」
「そうだな」
 床に座ってベッドに寄りかかっていた阿含が立ちあがり、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルをとりだす。
「飲む?」
「……ああ、すまん」
 その辺にあったマグカップに冷えた水をたっぷりと注いで渡した。うつむいてカップの縁に口をつける兄の顔を頭上から見おろす。決して長いとはいえない睫毛が頬に影を落としている。とりあえず触りたい。
「おれ、あんま我慢きかないんだけど」
「知ってる」
 雲水は目だけで一瞬こちらを見やり、すぐに視線を手の中の水面に移した。
「こないだの夜のこと……」
「うん」
「憶えてないんだろう?」
「あ゛ー、わりぃ」
「すぐ眠ってしまったんだから、なんの不思議もないな」
「ふーん」
「……」
「そんで?」
「それだけだ」
 沈黙がおりる。阿含はペットボトルを直接あおって喉を潤し、いまの会話を胸のなかで反復する。
「結論からいうと、どこが怒りポイントだったわけ?」
「……どこが、だと……?」
 また雲水の全身から不吉な空気が立ちのぼってきた。失言だったらしい。そうはいっても意味不明である。このうえは言及をすればするだけドツボにはまると判断し、じっと兄の言葉をまった。雲水も自戒するように大きく息を吐き、肩のちからを抜く。そして子供にいいきかせるように語尾にアクセントを置いて説明した。
「つまり、おまえが途中で寝ちゃったのが気に入らないんだ、おれは」
「……ヤってる途中だった?」
「そのとおり、だ。人にあんな体勢をとらせておいて、しかも中にねじこんでおいて、それはないんじゃないか?」
 広い背中やうねる肩胛骨や形のいい後頭部なんかが脳裏をよぎる。
「おにいちゃんは後背位がお嫌いのようで……」
「そんなことはいってない、むしろ好きだ。おれがいいたいのはそこではなく! 騒ぎまくって疲れてる状態で挑んでくるなってことだ。やりたいならコンディションをベストに調整してこい! 街での遊びのオマケじゃないんだ、おれは。それともまさかこのおれを! そこらでひっかけた女たちと一緒にしてるんじゃないだろうな!?」
「……」
「どうした。なんとかいえ」
「……おまえ、バックが好きなの」
 雲水は今頃になって顔を赤らめた。
「だっ、だからなんだ」
「そおゆうことは先にいえって!」
 きれいに剃りあげられた頭部をがっちり胸に抱えこみ、頬ずりなんかしてしまう。
「この……っ。かわいーんだよチクショー!」
 マグカップが揺れて阿含の袖をぬらしたが、そんなことに構っている場合ではなかった。力ずくでもベッドに引きずっていこうという考えで頭が一杯なのである。
「人の話きいてたのか、阿含」
「こないだ中途半端に終わっちゃったから欲求不満なんだろ?」
「違う!」
「これからは腰が抜けるくらい満足させられるよう精進するわ、おれ」
「ぜんぜん違う!」
「……違うの? 雲水のこと、もっとずっと大事にするって意味なんだけど」
「う。それなら違わ、ない……のか?」
「いちばん好きだし」
 正確には“いちばん”ではなく“唯一”好きなのである。ただそれを口にしてしまうのはなぜだかとても忌々しくて、いつも明言を避けていた。でもたぶん片割れは察してくれていると思う。雲水は眉をさげながら真意をうかがうように阿含の目を覗きこんだ。微笑みかえす。嘘は吐くし約束は破るし親密さに甘えすぎて頻繁に礼を失するし、ケンカになれば暴力も振るう。そんな間柄であっても兄に後ろめたくなることなどなにひとつ隠してはいなかった。誠実さには自信がある。阿含が雲水を傷つける要因はいつも愚かさや傲慢や無神経であって、裏切りではない。
 雲水の頬をべろりんと舐めてみた。微妙に嫌そうな顔をされたが抵抗はなく、逃げる気もないようだ。調子づいて細く鋭角的な鼻筋に横向きに囓りつく。兄は一瞬唖然とし、やがて底抜けに明るく笑いだした。久しぶりに笑ってくれた。双子の片割れの僅かな一挙一動に面白いほど左右されてしまう。他の者なら屈辱的なだけだが、この兄だと思えば不思議と許せてしまう。そりゃあ同一視に紙一重のレベルで味方してくれるのだから当然かという考えが浮かび、しかしすぐに否定する。阿含の愛情は常に独断専行の自己満足であり、相手の反応や理解などは往々にして必要としない。理由はどうでもいいのだ。己の内側からいくらでも湧きでてくる指向性をもった本能にひたすら従うだけの話である。欲望に忠実に雲水を抱きしめる。日向の匂いがした。いつも傍にあるのにどこか遠く懐かしい感じがする匂い。未来の記憶かもしれない。
「なあ、うんすーい」
「語尾をのばすな馬鹿っぽい」
「まだ怒ってる?」
「……いや」
 兄の手がためらいがちに阿含の腰の後ろを掴んだ。いくら身体を重ねても雲水は決して自分から相手の性的な部位に触ろうとはしない。それどころか通常の接触にすら怯えをみせるときがある。なにを畏れているのか阿含にはわからない。ただ雲水の手は震えがくるほど気持ちがよかった。滑舌のいい声の響きや自分より高めの体温やごつごつした肉の感触が、そこにあるだけで悦楽をもたらしてくれる。それがすべてだ。
「もっと撫でろコラ」
 喉を鳴らしてすりよったら、その荒れた指先が空中で逡巡し、不自然に固められた阿含の長い黒髪の上にのせられた。弟を幼児とみなして慰撫してくる。
「ぶっ……まぁそれもアリだな」
「なにがおかしい」
 平均を遙かにこえた体格のふたりが子犬のようにじゃれあっているのだから、端から見ればさぞ暑苦しいのだろう。雲水はそういったことでも胃を痛めるがもちろん阿含は気にしない。耳の後ろの匂いをかぎながら、ますます獣じみているなと思う。腕をゆるめて片割れの顔を鏡に対面するように覗きこんだ。いつも理知的な仮面があまく崩れ落ちていく過程を眺めるのが、阿含はなによりも好きだった。



◆タロットカードでシナリオ作成!レポート

過去 …… Princess of Swords:怒り・集中力・管理能力・復讐
現在 …… 21 "The Universe":宇宙(質問それ自体・実現・総合・遅れる・不活発)
山場 …… Swords4 "Truce":休戦
未来 …… Disks9 "Gain":利益
支援 …… Swords6 "Science":科学
敵対 …… Wands9 "Strength":ちから

→復讐を実現した主人公は科学的な解決法(?)でちからを退け休戦し、利益を得た。

 バカップル。そして無駄に長い。こういう話は引き際がむずかしいです。

【 2005.01.13 up 『双子についての6つのお題』→3.ケンカ  無断転載禁止  低温カテシスム 管理人:娃鳥 】  .


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