Run Lovers Run



「阿含。頼みがある」
 妙に改まった調子で雲水がそういってきたのは、寮のまずい夕飯を食べ終えて自室でコーヒーを飲んでいるときだった。
「ぁによ」
「明日の校内マラソン大会で、」
「サボるに決まってんだろ」
 即答したら、雲水はマグカップを座卓に置いて沈黙した。いつもなら畳みかけるように説教を始めるところなのだが……ありがたいというより気持ち悪い反応だ。阿含はわずかに眉を下げて続く言葉をまった。
「……おまえが優勝する姿がみたいと思ったんだ。ここのところ試合もないし練習には相変わらずこないし、おまえの雄姿を目にする機会がないから寂しくてな。でも嫌ならいいんだ、無理いって悪かった」
 どこかぎこちなく呟いてうつむき、また黙りこむ雲水。阿含もしばし唖然とする。
「ど……どどどどうしちゃったの、オニイチャン」
 にわかには信じられない。ありえない。デート(と阿含は思っている)の最中にも甘えた態度をとるどころか恋人として当然のスキンシップすらもさせてくれない雲水が。情事の後に睦言を囁いてくれることも滅多にない雲水が。それ以前にセックスの誘いをにべもなく突っぱねることも多い雲水が。日常では明らかに阿含を恋人ではなく出来の悪い弟としか扱ってくれない雲水が。阿含よりも部活を優先して当たり前の雲水が。たまに本気で目が冷たい雲水が! ……だんだん悲しくなってきたけど、とにかくありえない事態である。
 阿含はうつむいている雲水の顔を下から覗きこんだ。すっ、と視線をはずされてしまう。
「熱でもあんのか?」
 形のいいひたいに左手をあててみるが、べつに問題はないようである。首をかしげていると雲水の暖かい手のひらが阿含の手を優しく包みこみ、自分から頬をすりよせてきた。
「おれはな、阿含。やっぱりフィールドで活躍しているおまえがいちばん好きなんだ。とくに走っている姿がすごく……」
 阿含は目を伏せる雲水の腰に腕をまわした。どういう心境の変化があったのか、それはまあどうでもいい。この好機を逃したら男じゃない。いますぐ押し倒したいのを我慢して耳元に息を吹きかける。
「おれだっておまえのことばっかり見てるんだぜ。雲水のためならいくらでも走ってやるよ」
「本当か? マラソン大会にもでてくれるんだな?」
 一瞬、固まってしまう阿含。スポーツにちからを入れている神龍寺において、この手のイベントにはやたらムキになる生徒が蟻の数ほど存在する。賞金がもらえるわけでもないのにクラス対抗で順位を競いあい、勝った負けたと一喜一憂するのだ。なにが楽しいのかさっぱりわからない。出場すれば上位入賞は確実なのだろうが、阿含にとって“勝つ”のは珍しくもなんともないことだからだ。
 兄の表情をうかがおうにも阿含の肩にあたまをもたれかけさせているので顔がよくみえない。
「いいけどよー、なんかご褒美がほしいなー」
 ためしにいってみると、雲水がわずかに身じろぎした。
「……本来ならでるのが当然なんだから、それだけではな。優勝したら考えてもいいが」
「するする、おれがその気になれば校内1位ぐらいチョロいって!」
「それなら……」
「なにくれんの?」
「なにがほしいんだ?」
 やはり天才は神に愛されていると阿含は確信した。
「ちょ……ちょっとまて! なんでもいいんだな? なんでもいいんだよな!?」
「ああ、おれができることなら」
 阿含は顔を片手で覆って脳みそをフル回転させる。ふだんから雲水にしてほしいこと要求したいことはそれはもう大から小まで数え切れないほどあるが、いざ願いが叶うとなると、なにを望めばいいのか咄嗟には思いつかない。なにしろこんな奇跡は二度とおこらない可能性がものすごく高いのだ、うっかりつまらないことを口走るわけにはいかないだろう。
 うんうん唸っていたら雲水が苦笑しながら阿含の背中を軽くぽんと叩いた。
「いますぐじゃなくてもいいぞ、大会が終わってからでも」
 不自然なほど爽やかな笑みを浮かべている。白い歯がキラリと光ったような気がした。
「うんすい……どうしてそんなに優しいの……?」
「おれはいつだって優しいじゃないか」
 それは嘘だ、と思ったが、もちろん口にするほど迂闊ではない阿含である。今日はとにかくこの雲水を堪能することに決め、女と会う約束など綺麗さっぱり忘れて携帯の電源まで切ってしまう始末だった。


 廊下の左右に素早く目を走らせ、だれにも見られなかったことを確認してから雲水は扉をしめた。部屋の主であるゴクウが静かに鍵をかける。それでも早朝の寮内では驚くほど金属音が響いた。同室の者はまだ寝ているが、入り口ですこし立ち話をするだけなので大丈夫だろう。ゴクウが足音を忍ばせながら自分の机の引き出しをあけ、書類の束をもって戻ってきた。明るく染めた髪の毛が寝癖だらけで意外と猫っ毛なのがわかり、つい触りたくなる。
 ゴクウは必要以上に声をひそめて前置きもなく本題に入った。
「首尾はどうだ、雲水」
「とりあえず、うまくいった。でもいつ気が変わるかわからないから油断は禁物だ」
「そうか……あいつの件はおまえに任せるしかないからな。頼むぞ」
「わかってる。そっちは?」
 文字と数字が整然と並んだ名簿のような書類をめくる。
「上々だ。ここ見ろよ、生臭坊主ばっかりだぜ。監督も乗ってきてくれたし」
「よしよし、あの人に損さえさせなければ後で妨害が入ることもないだろう。一安心だ」
 雲水がうなずくとゴクウが右手を握って胸の前に突きだしてきたので、同じように右手をだしてコブシを打ちあわせる。
「勝負は勝負で、これとはべつだからな」
「当然だ。手加減しないぞ、お互いがんばろう」
 気の置けない友人として意地の悪い笑みを交わし、雲水は部屋を辞した。

 大会は午前9時から学年ごとに行われる。折り返し地点や給水所の設営準備があるので通常の授業開始と同じ時刻に登校しなければならないのだが、阿含はギリギリまで寝ているつもりらしい。仕方がないので1年生のトップがゴールし始めた頃を見計らって、雲水は寮の自室に戻った。
「なんだ、もう起きてたのか」
 もう着替えを済ませた阿含はベッドの下の段ボール箱をごそごそ漁っている。
「なあ雲水、バンソーコーどこだっけ」
「救急箱は左のほうだ……ちがう、向かって左だ」
「おー、あったあった」
「ケガしたのか」
「いやー?」
 阿含はいくつも繋がった絆創膏のシートを箱からひっぱりだした。そして兄を指まねきする。
「なんだ」
「ずっとまえTVかなんかでマラソン選手が喋ってたんだけどよ、あんま長距離を走るとシャツがすれて乳首から血がでたりするんだってさ」
「……ふーん。たしかに出血まではしないが、少し痛いときもあるな」
「だから乳首にバンソーコー貼って走るらしいぜ」
 雲水は反射的に大きく後ずさろうとしたが、阿含の左手にシャツの胸の辺りを鷲づかみにされた。
「それフルマラソンの話だろうが! 今日はたったの15キロだ!」
「おれは大事なオニイチャンのからだを気遣ってんだぜ」
「遠慮する、自分に貼れッ」
「てめぇの乳首はおれのもんなんだよ!」
 いきなり足払いをかけられてバランスを崩した雲水は、咄嗟に弟の無駄に長い髪の毛をつかんだ。
「いでででで、離せコラ」
 シャツもつかまれたままなので背中を打つことはなくトスンと床に降ろされて、そのまま阿含が腹の上にまたがってくる。雲水もさらにちからをこめてドレッドを地肌ごとむしりとってやる勢いだ。
「抵抗、すん、なっ、て。悪いよ、うには、しねえか、ら」
「すでに、悪いことに、なってるん、だ!」
 じつに不毛な睨みあいが数分も続く。やがて廊下の彼方から騒々しい足音が近づいてきた。双子の部屋の前で止まり、元気よくノックされる。
「雲水さん、いますかー?」
「いいところにきた、一休!」
「留守だ、あっち行け!」
 叫ぶような多重音声で返事があったせいか、ドアの向こうで一休は沈黙した。
「入っていいぞ」
「入ったら殺す」
 今度は低く吠えるような多重音声。しばらくしてカチャリと控えめにノブがまわる。
「……おれ、10位以内に入れたっすよ、雲水さん……」
 おそるおそる、という格好で顔を覗かせた一休は、こちらの姿を認めて頬をひきつらせた。その視線を辿るように雲水は自分たちの有様をあらためて確認する。馬乗りされ上着をまくりあげられて腹が丸出し、阿含の指は胸(というか乳首)を押さえているし、暴れるうちに弟の道着も片方の肩が脱げている。
「やあ細川クン、仲間に入れてほしいってか〜?」
 阿含が一休のほうに目を向けたまま、雲水の首筋から頬にかけてをゆっくりと舐めあげた。
「ゴメンナサイ! 失礼しましたぁ!」
 泡を食った様子で勢いよく扉をしめて走り去っていく一休。
「まて! これは本当に誤解なんだーっ」
 ひとつしか違わないというのに印象が子供っぽいせいか、それとも熱血しやすい真っ直ぐな性格をしているためか、雲水は一休を、けがれない魂を未だにもっている純粋培養児であるかのように思っているのである。無論そんなのは錯覚だとわかっているが、それでも幼い息子に両親の夫婦生活を覗かれてしまったような罪悪感を抱いてしまい、のしかかる弟を力一杯つきとばして身を起こし、後を追おうとした。
 その背中に阿含がずしりと覆い被さる。雲水の五指が畳をひっかいた。
「あ・ご・ん〜」
「……なんでだよ。昨日はあんなに素直で可愛かったのによぉ」
 ハッと雲水は我に返った。そうだった、いまは阿含の機嫌を損ねるわけにはいかない。畳にひたいをつけて深呼吸、咳払い。
「すまん。いきなりだったから、その、照れてしまったんだ」
「そうなん……?」
 さすがに疑わしい表情をしている阿含のほうをふり返り、最上級の笑顔をみせる。
「本当に悪かった。おれのことを心配してくれたのにな。おまえの気持ちを無にするつもりはないんだ」
「だったらコレ」
 絆創膏をひらりとみせられて雲水は一瞬だけ息をのんだが、すぐに覚悟を決めた。
「じゃあ、貼ってもらおうか」
 正座して、病院で診察をうけるときのように服の前を首までまくりあげる。阿含がにぱっと顔を輝かせた。膝立ちでにじりよってきて丸型の絆創膏のシートをぺりぺり剥がす。
「なんかお医者さんごっこみたいだよな」
 それはいわないでほしかった。
 雲水がため息をつきたいのを我慢して天井を仰いでいると、右胸の中心にすこし冷たいものが貼られたのを感じた。その上から円を描くように優しく撫でられる。こそばゆい。いったい自分はなにをしているのかと人生に根本的な疑念を抱き、世を儚みたくなってきた。己の幼少時代から始まって発展途上国の飢えた子供たちにまで想いを馳せているうちに、左の絆創膏も貼り終わったようである。仕上げに鎖骨の辺りにキスをして、阿含は満足げな吐息をもらした。
「さ、もういいだろ。スタートに遅れてしまう」
「ああ……そういやマラソンすんだっけか」
 殴りつけたい衝動をなんとか耐える。
「優勝、期待してるぞ」
「おうよ。おれもご褒美が楽しみだ。なにもらうかは走りながら考えっから!」
 とにもかくにもスタート地点まで連行することに成功し、雲水はほっと胸をなでおろしたのだった。


 冬の空気は冷たく澄みきって、肺に突き刺さるようだ。
「くっそ寒ぃ」
 白い息と共に吐きだされた阿含の呟きが、あっという間に背後へと流れていく。空は青く透きとおり、山の木々は常緑樹が多いのか意外と枯れてはいなかったが、全体的に黒っぽく沈んでいる。人も車もあまり通らない山間の車道は信号も道路標識も少ないわけで、変化のない風景がどこまでも延々と続く。要するに辛気くさくて退屈きわまりないルートでひたすら足を交互に動かすのが神龍寺高校のマラソン大会なのである。
 阿含は並んで走る数人にちらりと目をやった。陸上部のユニフォームを着て、いかにも長距離ランナーらしい痩せた体型をしている。さすがにこういう連中くらいはトップ集団を走らないと神龍寺もおしまいだろう。雲水は3キロ地点の給水所辺りまではついてきていたのだが、現在は少し離れた後続のグループにいるようである。腕時計で時間を確認すると、そろそろ折り返し地点のはずだった。道のりが単調なので距離が計りにくく、進んでいる実感も得られないので、非常に嫌なコースであると思う。阿含だって腐ってもスポーツ選手だから身体を動かすこと自体は苦にならないが、刺激の少ない運動が面白くないのも事実だ。せめてMDプレイヤーをポケットに入れてくるべきだった。近くにいる者たちはきわめて真剣な様子で、走りながらの世間話にはつきあってくれそうもない。つまらない。飽きてきた。早いとこ終わらせてしまいたい。
 踏切をすぎて左曲がりの坂をこえると急に騒がしい声がきこえてきた。教師たちのマイカーに分乗して折り返し地点に先回りしていた大会スタッフたちが大げさに手をふっている。こんなイベントでそこまで楽しそうにできるとは羨ましいかぎりだ。
「阿含さーん、水はこっちっすよー」
 ……小うるさいガキまでいるようである。逆立った髪の毛のシルエットを目の端でとらえながら、無視して目的の地点まで直進した。数人の生徒がスタンプを手にして待ち構えている。右腕をさしだしたら腕の外側の、肘と手首のちょうど中間に、龍をかたどった赤い印をつけられた。
「ちっ、目立つとこに押しやがって」
 この校章スタンプがなければ完走したとは認められないのだから仕方がない。
 阿含は水分を必要としなかったが、陸上部員たちは紙コップを口にして道に投げ捨てている。もちろんこのゴミも生徒たちが拾って帰るわけだ。まったくご苦労な話である。
 また踏切を渡った。田舎のローカル単線は1時間に一本の世界だったりするので列車とかちあうことはまずないだろう。遙か彼方から反対車線を5〜6人のグループが走ってきた。片割れの姿はどんな遠くからだって見分けられるし、向こうだってそうなのだ。声をかけたら怒られるかもしれないと気づいて、すれ違いざまに軽く手をふるだけで我慢しておいた。雲水はただこちらに視線を流しただけで通りすぎる。べつに機嫌が悪いわけではなく単に余裕がないだけなのはわかっているので、阿含はひとり笑みを浮かべた。
 そういえばまだ優勝のご褒美になにを要求するか決めていない。もちろん雲水を丸ごといただければ最高なのだが、具体的にどうすればいいのか迷うし、兄を嫁にもらうのは阿含の中ではすでに決定事項なのでいまさら考えるまでもないことである。
「なんか約束でもさせるか……」
 甘ったるい未来をあらゆる角度から妄想し、阿含は頬を緩ませた。並んで走る数人が青ざめながらさりげなく離れていく。
 その後も、有象無象の生徒たちがわらわらと姿をあらわした。ナーガのチームメイトたちは日頃の厳しい練習の成果もあってか、ほとんどが良い成績を残せそうだ……というより、それくらいでなければチームにいられないのだろう。最後尾の生徒を見送ってから結構な距離を走ると、また給水所がみえてきた。これで残り3キロである。いいかげん手足がダルくなってきたのだが、まだまだ阿含は余力を残している。
 一緒に走っていた陸上部員はいつのまにかふたりになっていた。かれらはポイントを通過するたびに時計を確認しているようだ。ペース配分に気を配る習慣がついているのだろう。阿含はそういったことは気にしたことがない。考えなくても自然にできるからだ。自分ができる範囲やできなくなる限界やそのときの体調による変動ですら実際にためしてみなくたって最初からわかっている。そうやって自分にいちばん調子がいいように動いているだけで好成績まで叩きだせてしまうわけだ。自分なら意識しなくてもふつうにできることができない奴の気持ちなど正直いってわからないが、訓練すればできるようになる人間とどうやってもできない人間がいることは知っている。純粋に才能だけが必要なことなど世の中にはあまりないし、どんな分野でも道を究めていけばセンスの有無に左右される領域へと到達するのだろう。評価は相対的なものだ。日本におけるアメフトであれば、雲水だって一流と呼ばれるプレイヤーの仲間入りを果たすことも不可能ではない。自分のような弟をもってしまったおかげで雲水は不必要なものに囚われており、同時に不可欠でないものを手に入れることができた。それが幸か不幸かは本人の主観によるものだから阿含が考えたって意味はないだろう。
「おい、どうした!」
 それまで黙々と走っていた隣の男が急に大声をあげたので、阿含の意識は現実に引き戻された。見れば、もうひとりの陸上部員が下腹を押さえて脂汗を流している。
「生理痛じゃねえの?」
 自分の笑い方がどういう印象を与えるか、阿含はよく知っていた。元気なほうの男が物怖じしない表情で息切れしながら刃向かってくる。
「さっきの水に、なんか入れたんじゃ、ないだろうな」
「……あぁ? んだそりゃ」
「今年は生徒会だけじゃなく、アメフト部も一枚かんでるって、きいてるぞっ」
 阿含は眉間に深い縦皺をよせた。マラソン大会などこれまで興味がなかったので、なんの話か不明である。いろいろ推測はできるが後で確認するしかない。とにかくいまわかるのは、たかだか校内マラソン大会で優勝するために不正をしたのではないかと自分が疑われているという事実である。サングラス越しに一瞬で背後をたしかめた。山道は曲がりくねっていて後続のグループなど影も形もみえない。阿含は反抗的な態度をとった奴を思いきり蹴りつけて道ばたの木陰に転がし、体調を崩したほうも服をつかんで引きずりこんだ。
「おれを誰だと思ってんだ、あ゛ーぁ?」
 急に立ち止まったせいで全身に激しい血流を感じ、こめかみの辺りがずきずきする。太陽を背にして見おろしてやると、ふたりが息をのんだ気配がした。陸上部のユニフォームに阿含の影が黒々とかかる。
「てめえらなんか眼中にねぇんだよ」
 なめた真似をしてくれた男の襟をねじりあげ、その背中を木の幹に打ちつけた。咳きこみながら顔を歪ませて目尻に涙を浮かべている。
「わ、悪かった。すまん、ごめんなさい」
 抵抗する意志を失ったのがわかってからもしばらく許さなかった。不快に汗ばんでいる相手の身体からわずかな震えが伝わってくる。じきに気が済んで襟を離した。もうひとりの陸上部員は腹をかかえて本格的にうずくまってしまっているが、知ったことではない。
「そんじゃ、お先にー」
 だいぶ時間をロスした気がするのに依然として阿含がトップらしい。走りだしたらすぐに元のリズムをとり戻すことができた。ゴールはもう目前だ。


 8位でゴールした雲水は足をとめずに傾斜した芝生まで歩き、どさりと座りこんだ。地面に顔を向けて肩を上下させつづける。なかなか息が整わない。ランニングは日常的にしているとはいえ全力で長距離を走るのは久しぶりだった。動けずにいると冬の冷たい風が容赦なく体温を奪っていく。
 遠くから名前を呼ばれて雲水は顔をあげた。山伏が昇降口のほうから駆けよってくる。
「先輩……阿含はどうでしたか」
「ああ、ちゃんと1位をとったんだが、その」
「……なんです?」
 目立つ傷まである厳ついヒゲ面の大男がうろたえているさまは一般的にいうと見苦しいのだろうが、チームメイトにとっては見慣れた光景なので雲水も動じない。
「いま生徒会室にのりこんで」
 しかし、この言葉をきいて平然としているわけにはいかなかった。疲れきった身体に鞭うって立ちあがり、肩を貸そうとする山伏の手を断って校舎に入る。こういう事態になったとき対処するのは自分の役目であるということで話がついているのだ。生徒会室は第二校舎の3階にある。階段をのぼるのがしんどくて自分はまだまだ修行がたりん、などと明日に向かう気力を再充填してしまう雲水であった。
 3階に近づくにつれ否応もなく慣らされている騒ぎ声がきこえてきて、ため息をひとつ。
 学校の廊下は意外と足音がしないなと思いながら目的の部屋の前にたどりつき、生徒会室というプレートがかかっている引き戸を思いきりよく開け放った。自分でも驚くほどの音がして、室内の空気が凍りつく。そこには予想どおりの惨状が広がっていた。机が倒れ椅子がひっくり返り本棚の中身がぶちまけられ床には書類が散乱し、窓ガラスが割れてないのは奇跡のようである。阿含は生徒会副会長を締めあげている最中だった。今期の会長は要領がいいので、いち早く避難してしまったのだろう。副会長の顔色はかなり危険なレベルにまで達している。
「阿含、その人を殺すつもりか。おれは身内から犯罪者をだしたくはない」
「事と次第によっては離してやってもいいけどよ」
 対峙する双子のあいだに炎のようなオーラが渦巻いた。数人の生徒会役員と、ついでにアメフト部員たちもが固唾をのんで見守っている。
「だいたい話はきいたぜ、雲水。マジで一服盛ったりしたのか」
「まさか。あの陸上部の奴らだろう? ひとり救急車で運ばれた。盲腸らしい」
「……で? おれが優勝するとオッズはどんくらいなんだ?」
「56倍だ。まさか参加するとは思われてないからな、万馬券だぞ」
「おれは馬かぁッ!」
 がしゃあん、と派手に副会長が戸棚に投げつけられた。雲水は弟の凶悪な視線を正面からうけとめる。そしてフッと息を吐き、滑舌よく断言した。
「 部 費 の た め だ 」
 伝家の宝刀を抜いた雲水に対して、そこかしこから小さな拍手が浴びせられる。阿含は立ち尽くし、やがて消え入りそうな声で呟いた。
「ご褒美は……?」
「うん、それはやるぞ。約束だからな」
 ほしいものは決まったのか?と問いかける雲水に向かっていきなり阿含が突進してきた。がっちり首を抱えこまれて強引に廊下に連れだされる。
「とりあえず汗くせーからシャワールーム行こうぜ!」
「く、苦しい阿含。逃げやしないからっ」
 ずりずり引きずられながらふり返ると共犯者たちが心配そうに、しかし追いかける気はなさそうに見送っていた。
「みんなーあとは頼んだぞー」
「りょーかーい。そっちも任せるからね雲水くーん」
「黙れ! 憶えとくからな、てめーらー!」
 ちからのない悲鳴が響き、すぐにきこえなくなった。雲水が自分の足で歩きだすと阿含は首から腕を外したが、代わりに肩をにぎりしめて死んでも離さない構えだ。雲水は背中側から手をまわしてポニーテールにしている阿含のドレッドをなでる。
「とにかく1位になったのは凄いな。さすがだ」
「当たり前なんだよ、そんなん」
「おれは当たり前とは思ってないぞ。毎回感心する」
 じとりとした瞳で見あげられた。昨日の今日なので信用されていないのだろう。まあ仕方がない。
「はやくシャワーを浴びようか、おれも少し気持ち悪い」
 雲水の言葉をきいてようやく阿含は口の端をつりあげた。
「そーだな、あそこではまだだったからな」
「……なにが?」
「ふ……これからタップリ教えてやるって」
 そのときなぜ逃げなかったのか悔やんでも悔やみきれないほどそれはもうタップリと身体に教えこまれてしまう雲水なのである。しかしそんな近い未来も知らず、いまは呑気に窓の外を眺めていた。春の気配は静かに確実に近づいてきている。



◆タロットカードでシナリオ作成!レポート

過去 …… 8 "Adjustment":調整(バランス・調整・適性・結婚・契約・公正な判断)
現在 …… Wands6 "Victory":勝利(成功・美・良き指導者・魅力的人物)
山場 …… Swords8 "Interference":妨害(粘り強さの欠如・場違いな馬鹿正直)
未来 …… 9 "The Hermit":隠者(孤高・思慮分別・沈黙を守る必要がある・引退)
支援 …… Disks8 "Prudence":慎重(貯蓄・我慢強さ・結果を待つ・時を稼ぐ)
敵対 …… 1 "The Magician":魔術師(知恵・活動性・メッセージ・器用・放浪・狡さ)

→公正な判断により良き指導者となっていた主人公だが、結果をまって馬鹿正直にふるまってしまい、器用な者に沈黙を守る必要があると教えられた。

 私の高校のマラソン大会は男子13キロ、女子7キロで、女子の制限時間は1時間でした。マラソンなんてこの世から消え失せればいい……。




●メルフォ or 拍手コメントへのお返事
>こっそり日参
 ああありがとうございます。なにも更新してない日もあるサイトで申し訳ありません、せめて日記だけでもなにかしら動きを作ろうと思いました。「今回も面白かった」といっていただけてすごく嬉しいです! こういう話は自分でも書いてて楽しいんですけど、外してるんじゃないかと常に自信ない部分もあるので、お言葉いただけて安心しました。今後も頑張ります。
(2005.03.18 追記)

>「あるある!」とツボでした。
 ふっと遠い目をしてしまう瞬間ですね(笑)。あの絆創膏は最後にオチのひとつとして使うつもりでいて、すっかり忘れてしまった小道具です。廊下をふたりで歩きながら阿含が「まだ貼ってる?」といって雲水の胸をまさぐる描写とかするつもりだったのに。
 ……一日中そんなことばっかり考えてます。コメントありがとうございました。
(2005.09.27 追記)

【 2005.02.25 up 『金剛兄弟すき子さんに15のお題』→10.作戦会議  無断転載禁止  低温カテシスム 管理人:娃鳥 】  .


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