過程の世界



 家に帰ると、両親が車に荷物をつめこんで出かけようとしていた。
「ああ阿含。ちょうどいいところに」
「なに、夜逃げ?」
「そんなわけないでしょ、いま昼間だし」
 そういう問題じゃないだろう、と思ったが、ふたりの慌ただしさに口をつぐむ。向こうも阿含がまだ授業中なのに早退してきたことを咎める気はないようだ。中学も二年目で、いまさらなのかもしれない。
「九州のおじさんがね、具合悪いらしいのよ。ちょっと様子みてくるから。問題おこさないでね」
「あー……」
 福岡には両親が個人的に懇意にしている老人が住んでいたが、息子たちが忌引きで休めるほど近い親戚ではない。どんな顔をしていたか朧気に思いだしたりしているうちに両親は車を発進させ、排気ガスをまき散らしながら去っていってしまった。
 玄関で靴を放りだして裸足のまま階段をのぼり双子の片割れの部屋のドアをあける。きれいに整理された学習机の上に、わざわざ封筒に入れて母の字で『雲水へ』とまで書かれた置き手紙があった。封はしていない。なんの躊躇もなく中身をひっぱりだす。思ったとおり一万円札が一枚、無造作に入っていた。藤の花が描かれた一筆箋には2〜3日で戻る予定だと記されている。
 阿含は一万円札を財布にしまった。口元が緩む。
「晩飯なんにすっかなー」
 夜の街で遊ぶために着がえようとしていたことなどすっかり忘れ、兄とふたりっきりで過ごす数日の予定を立てながら自室に戻り、手紙を丸めてゴミ箱に捨てた。


「ご注文はお決まりですか」
 ウェイトレスの言葉が終わらないうちに弟が「瓶ビール」といったので、その金髪の頭を雲水はメニューでひっぱたいた。
「ってーな!」
「いまのナシです。飲み物はウーロン茶ふたつ。90分の食べ放題でお願いします。上カルビ、カルビ、ロース、タン塩、ハツ、ミノ、ハラミ、焼き野菜ミックス、サンチュ、」
「別料金の石焼きビビンバふたつ」
「ひとつでいいです。おれはライスで」
「それ邪道だって」
「人の好みにケチをつけるな。あとキムチ盛り合わせ。とりあえず以上です」
「では火をおつけします」
 金網の向こうに青い火が灯った。阿含が去っていくウェイトレスの後ろ姿を見送りながら彼女や他の女性従業員たちの体型を比較しているのを聞き流し、雲水は暖かいお手ふきの袋を破る。
「おじさん大丈夫かな」
「去年も親戚大集合させといて結局なんともなかったじゃん」
「あれから何度も入院してるみたいだし」
「あそこのババァ大げさなんだよ。それよりさ、明日の朝飯どうする?」
 ふだん以上に堅い顔をしている雲水とは対照的に、阿含は上機嫌だった。子供の頃から夏休みなどで遊びにいくたびに泊まらせてくれる親戚で、小遣いもよくもらった。ここ数年は相手が高齢と病気のため疎遠になりがちとはいえ、年賀状はだしているし、たまに電話で話すこともある。雲水にとってはわりと幸福な思い出をともなって記憶されている老人なのだが、弟は違うのだろうか。
「コンビニでパンでも買ってこうぜ」
「……トーストと目玉焼きくらいならできる。冷蔵庫にハムとタマゴあったから」
「えー。まあ、おまえが作るんならいいか」
「母さんいくら置いてったんだ?」
「ないしょ〜」
「手紙もなにもないなんて珍しいな」
「おれがちょうど帰ってきたからだろ。急いでたしな」
 阿含はテーブルに備えつけてあるタレの蓋をあけてみたり割り箸で金網をつついてみたりで、あいかわらず落ち着きがない。
「おかね半分よこせ。晩飯代」
「明日も明後日もちゃんと帰ってくっから心配すんなって。なに食いたい?」
「予算による。でも明日も明後日もその次も平日なんだから、べつに特別なものじゃなくていいんだ。部活がなければ自炊するんだけど……」
 続々と生肉その他がのせられた皿が運ばれてくる。いきなり阿含が焼けた金網にカルビをほとんど並べてしまった。あわてて雲水も箸を動かす。
「野菜とか内臓が先だ、火が通りにくいんだから」
「うっせーな……鍋奉行かよ」
 目の前で肉が焼けていい匂いが漂いだすと、雲水は自らの腹具合を思いだし、ようやく気持ちをきりかえて食事に集中する。毎日ハードな部活に参加して自主トレまでしている雲水に比べれば阿含はそれほど空腹ではないようだが、食べ盛りで体格のいい男子中学生がふたりいるのだからみるみるうちに皿が片づいていくわけで、なにやら弟が「帰りにビデオを借りていこう」だの「おまえも携帯もて」だの「洗面所の下の棚にふだん使ってない入浴剤をみつけたから試してみよう」だの「久しぶりに同じ部屋で布団ならべて寝ちゃったりしねえ?」だの「明日てめーも学校サボれ」だの「せめて部活サボれ」だのと一方的に喋っているのを右の耳から左の耳に通過させて適当に相槌をうちながら、肉と野菜とライスをひたすら口に運ぶ雲水である。年齢的にも身体を作るために多食することが推奨されている。ちなみにカルビよりタン塩が好きだ。
 阿含がテーブルの隅にあるボタンを押した。すぐにウェイトレスがやってくる。
「上カルビみっつとリブロースふたつ追加な。雲水は?」
「タン塩とハツひとつずつ……あと野菜ミックス」
「野菜はもういい」
「とうもろこしと椎茸が食べたいんだ!」
 こんな調子で90分めいっぱい貪り食べて腹十二分目くらいで満足し、ふたりは店をあとにした。デザートに頼んだ柚子のシャーベットのおかげで胸にもたれた感じもしない。なにか大事なことを考えていたような気もするのだが、満腹してしまった現在、脳みそなど回転するはずもなく。真っ暗な家に帰って居間のあかりをつけた頃には睡魔の足音さえ近づいてきていた。
「お風呂……洗ってあるのかな」
「さあ。少なくともおれは洗ってねーぞ」
「それはわかってる」
 風呂場を確認したらまだのようだったので浴槽だけを手早く洗って給湯し、ついでに歯もみがく。それから居間の戻って先ほどいったん帰宅したときに放りだしたままだった通学カバンの中をみる。宿題はない。しかし英語の予習と数学の復習をしたい。教科書をぱらぱら広げていたら阿含がいきなり背後から肩越しに覗きこんできた。
「やんなくたって余裕だろ、おまえなら」
「……自分を基準に考えるな」
 と答えてはみたが、この内容といまの授業の進行速度であれば、たしかに復習までは必要ないだろうという気もしているのである。でも弟と同じことをしていたら早晩ついていけなくなるのも知っている。やれることはしておいたほうが精神的にも安心できた。
「なあビデオ……は借りてくんの忘れたし、テレビ」
「いまなにやってるんだ」
「火サスとか」
「興味ない。風呂いってくる。それとも先に入るか?」
「いえ、ドウゾ」
 自室で着がえを用意して脱衣場にいくと、阿含が浴槽に入浴剤を振り入れていた。湯が人工的なグリーンに染まっている。母は残り湯を洗濯に使うためか入浴剤は買ってこないので、貰い物かなにかだろう。
「なんの種類?」
「んーと、ひのきって書いてある」
「好きな匂いだ」
「そうだろ! そう思ってさ。疲れとれよな。背中ながしてやっか?」
「結構です……」
「なんでだよ、せっかく人が親切に……あ、もしかして、まだ毛がはえてないとか」
「そんなわけあるかっ」
「大丈夫、笑ったりしねえから」
「向こう行ってろ!」
 なんだか弟がやけに期待に満ちた光を目に浮かべつつも奥歯に物がはさまったような言い方をしているように感じるのは気のせいだろうか。なにか待たせていることでもあったろうか。雲水は身体を洗ってから湯船に全身を沈めてながい息をついた。とくに思い当たらない。反古にしている約束もないはずだ。
「そうだ、明日の洗濯どうしよう」
 朝練で早朝に家をでる雲水には不可能な話である。帰宅も遅い。弟に頼んでも無意味だろう。
「ためておくしかないか」
 両手をあげて伸びをする。瞳を閉じてぼんやりしていたら本格的に眠くなってきた。


 雲水がでた直後の暖まった浴室に入り、阿含は肩を落とす。
「はぁ」
 ふたりの時間をこんなに大切にしようとしているのに、どうして兄はああもノリが悪いのだろうか。べつに愛想をふりまけというわけではないが、なにを話しても芳しい反応が返ってこない。そして改めて面白くない事実にも気づいてしまう。もしかしなくても、自分たちには共通の話題というものがとても少ないのではないか。嗜好が合わない。いつもはどんな会話をしていただろう。
「は〜ぁ」
 思い浮かべて阿含はさらにうなだれた。自分の遊びや交友関係のことを阿含が喋っているときは雲水が聞き役をしているし、逆に雲水がどうでもいいようなことで説教しているときは阿含のほうが聞き流しているし、よく考えてみれば自分たちの会話はかなりの割合で互いに一方通行なのであった。かといって雲水が友人のことなど話しだしたら阿含は不機嫌になるだけだ。つまり生まれたときからの長いつきあいで学んできたからこそ現在の状態があるわけで、これでうまく回っているのである。
 阿含はため息をつきながら簡単に湯を浴びて浴槽に片足をつっこんだ。あるものを視界の隅に認めて動きを止める。しばらく凝視してから手を伸ばし、水面に漂うソレを指先でつまみあげた。短く縮れた毛、である。
「お〜、ホントにちゃんと生えてんのね」
 ……なんだか自分でも呆れるくらい吃驚している。もちろん先ほどの言葉は冗談であって、自分と同い年で同じ遺伝子をもっていて体格も似たりよったりの兄弟に自分とかけ離れた部分があるなどとは考えていないのだが、ではこの驚きはなんだろう。寒さを感じて全身を湯につける。足元の壁にある追炊ボタンを足の親指で押した。電子音と共に壁の向こうでボイラーが作動した振動がする。指先の毛をぬれた壁に貼りつけて入浴剤の鮮やかなグリーンに染まる己の陰部を眺めた。兄が性格的な面で、性に対して未熟なのは事実であると思う。だからきっと肉体的にも未発達のようなイメージを抱いていたのだ。劣っているはずのものが自分と変わらなかったから驚いた、のではないだろうか。
「ちょっと違うな……なんつーの? 娘に生理があるのを知った父親のような……」
 一瞬沈黙して、阿含は湯船の縁に後頭部を打ちつけた。
 それもどうかしている。
 勢いよく立ちあがり、浴槽の外にでて頭から湯を被り、シャンプーを両手につけて頭をガシガシと洗った。頭上で洗面器を逆さにして洗い流し、ブリーチした髪用のトリートメントを塗りつける。そのまま身体のほうもガシガシこすって今度はシャワーを頭から浴びた。終了である。ふたたび浴槽に入る。ヤモリのように壁にくっついている陰毛が目に映った。セロテープで貼り合わせて記念に保管しておこうか、という考えが脳裏をよぎる。あわてて頭を横にふった。とっておいてどうするつもりなのか。……お守りになるかもしれない、とまで考えてしまって、さらに激しく頭をふる。それは人として大事な何かを永遠に失って取り返しがつかなくなるような気がする。
「くっそー」
 風呂あがりの雲水を思いだしてつい、ほわ〜んとなってしまった。屋外スポーツの選手にはありえないような白い肌が上気して、いつもは鋭い眼光が少し眠そうに焦点をぼやけさせていて、いい匂いまでするし、これを他人にみせるわけにはいかないという感じである。
 洗面器で壁に湯をかけて問題の毛を排水溝まで追いやり、風呂をでてTシャツとスウェットを着る。
 阿含は以前から双子の片割れに対して性的な欲望をおぼえる自分をはっきりと自覚していたが、実際に手をだすかというとそれはまったく別の話で、ふだん遊び相手にしている女たちとは違うのだから同じように扱うことはできないと考えていた。漠然と……そう、まるで初潮も迎えていない子供に欲情しているような気分でいたのである。否もちろん兄に初潮などくるはずないのだが……否べつに精通がまだだと思っているわけでもないのだが、つまり、否どちらがまだでも自分たちがするであろう行為に差し障りなどないのだが、そうではなく要するに。
「あ゛あああああああぁ!」
 バスタオルで頭を激しく拭いた。髪も地肌もダメージをうけただろう。やがてピタリと手が止まる。
 いままでのことはどうでもいい。今日ついさっき、雲水には生理があることを知ったのだから。……違う。陰毛があることを知ったのである。まあ腋毛だったかもしれないが、片方だけが生えているということはないだろう。相手は子供ではなかったのだ。
「そっか」
 気の抜けたような顔をしていた阿含の口元を、徐々に微笑が支配する。居間にいっても兄の姿は見あたらなかった。台所で冷蔵庫をあけて飲み物を漁っていると二階から人の気配がする。すでに自室へと戻ってしまったらしい。
「おにーちゃん、つれなーい」
 2リットルの日本茶のペットボトルをあおって喉を潤し、手にもったまま二階への階段をのぼる。ミシリ、ミシリと音が響く。ふだんは気にならないのに大きくきこえるのは人が少なくて静まりかえっているからだ。いまこの家にはふたりしかいないからだ。
 ノックもなしにドアをあける。学習机に向かっている背中がびくりと動いて跳ねるように頭があがった。指で目をこすってからのろのろとふり返る。うたた寝していたらしい。まぶたがほとんど落ちている。
「まだ10時すぎだぜ」
「うん」
「今日は布団ならべて一緒に寝るっつったよな」
「あぁ……そんなこといってたな。本気だったのか。もう眠いから布団なんか運びたくない」
「おれやる」
「学校はサボらないからな」
「わぁーってるよ」
 部屋の入口あたりにペットボトルを放りだし、あくびをしている兄を残してさっさと廊下を歩き、納戸からむかし使っていた布団をひっぱりだした。ふたり分まとめてもったら前方が見えなかったが、勘だけで雲水の部屋にたどりつく。余裕である。雲水はゆっくりした動作でカバンにノートをしまっていた。阿含の姿をみて眉間にシワが刻まれる。
「ここに敷くのか……?」
「おれの部屋じゃムリだろ」
「……それはそうだ。少し片づけたら」
 いままで自分で布団を用意したことなどほとんどないとは思えないくらい手早く完璧に敷いてしまう阿含。基本的にやればできるのである。やらないだけで。子供の頃と同じ向きで並べ、子供の頃とは違ってふたつの布団の間をぴったり密着させて準備完了する。夢うつつの雲水は細かい部分には気づかなかったらしく、ごそごそ掛け布団をめくってもぐりこんでしまった。
「おやすみ……あかり消して……」
「ちょっとまて、まだ寝るな。おい! 本番これからだ。雲水ってば!」
「んー……」
「マジかよ!」
「……」
 すぐに気持ちのよさそうな寝息がきこえてくる。
「がッ」
 阿含は握りしめた両手を叩きつけて、ひたいを布団につけた。この音でも雲水は目覚めない。いったん寝てしまったら朝まで絶対に起きないほど眠りが深いのだ。じっとりした目で己と同じ顔を見やる。ふだんはまるで似ていないが、寝顔だとソックリなのではないだろうか……などと確かめようもないことを考えて、灯りを消した。世間的にも寝るにはいささか早い時間で、窓からの光が明るい。手を伸ばして置きっぱなしにしていたペットボトルを枕元にひきよせる。雲水はこちらを向いて眠っていた。薄くあけられたくちびるの隙間から真珠のように白く丸みを帯びた歯がわずかに覗く。
 阿含は身体を横たえたままジリジリと雲水に近づいた。布団の中に手を入れて胸のあたりを目指してみたら途中で腕にぶつかった。まさぐる。脱力しているせいか、太く力強いと知っている指が、ひどく頼りなく感じられた。その腕の上に身体を乗りあげて自分の脇の下あたりに固定する。かなり重いはずなのだが一向に目を覚ます様子はない。暖かかった。眠ったばかりで体温があがっているのだろう。さらに手を進めて腹からシャツの裾をめくり、胸骨にそって撫でてみる。規則正しい呼吸と共に上下して、心臓の鼓動も平静そのものだ。まったく反応がないのはやはりつまらない。それでも舐めてやるつもりで距離をつめていく。
「さっきまで階段があったんだ」
「……はあ?」
 すぐ目の前のくちびるが唐突に声を発した。阿含が身をかたくして次の言葉をまっても、すーすー健やかな寝息が頬をくすぐるばかりである。
「ずいぶんハッキリした寝言だな」
 ちょっと呆れながらも気をとりなおし、今度は雲水の首筋に顔を近づけて深く空気を吸いこんだ。女のように甘ったるい体臭はしない。けれどもなにやら好きな匂いがする。しばし目を瞑ってうっとりする阿含。このまま眠ってしまってもいいような気分になってきたが、それもなんか悔しい。身体を上にずらしてくちびるを合わせようとする。
「そっちの金魚がいいと思う」
 触れるか触れないかの距離で喋られて、えもいわれぬ柔らかいものがくちびるをかすめたのを感じる。
「どんな夢だ……」
 驚かされて心臓が跳ねあがり吐息が混じりあう感覚で脳が痺れて阿含の中は大変なことになっているというのに、肝心の相手はまだまだ眠りの淵に沈みこんでいるようだった。もっと乱暴に扱えば目をさますのかもしれないが、どうしたものか。
「すべってもあの花が咲いてるし」
「ワケわかんねーよ!」
 雲水の呼吸が止まる。まぶたが微かにひらき、目があった、ような気がした。ひらきなおるにはまだ心の準備が足りなかった阿含の背中を、冷たい汗が伝う。
「あー、これはその」
「怖いのか」
「……いやべつに」
「阿含は池の亀で遊んだからな」
 どうやら依然として夢の中にいるらしい。完全に毒気を抜かれて阿含はため息をついた。すると雲水の腕にきつく抱きしめられる。
「大丈夫。おまえを喰わせたりしない」
「……喰われる役なんだ、おれ」
「あごん……」
 また腕がちからを失った。寝息が復活する。
「やっぱガキだ、こいつ!」
 もう寝言もきこえない。完全に眠ったようだ。阿含は雲水の腕に頭をのせて胸に頬をすりよせる。腕枕してやったことはあっても、されるのは初めての経験である。
「いいよな、おにいちゃんが守ってくれてるみたいだし。亀から?」
 金魚かもしれないと呟いて、わずかな失望とかなりの安堵を胸に、阿含は目を閉じた。


 夕焼けに染まる帰り道、ぎこちない動作で雲水は左腕をまわす。
「……まだ駄目だ……」
 一昨日いつもの時間に起きたら腕が完全に痺れていて、朝練では使い物にならなかった。まさか弟に腕枕をしていたともいえず、人には寝違えたと説明するしかない。痺れはすぐに消えたが翌日になっても痛みは続いていて、チームメイトやクラスの友人にはよほど寝相が悪かったのだろうとからかわれている。ほとんど八つ当たり気味に阿含を叱ったら逆に夢の内容をしつこく尋ねられたけれどもとくに憶えてはいないし。それからも毎晩ずっと一緒に寝ていて気がつくとガッチリ拘束され、身体中が痛くて仕方がないのだった。
「ただいま」
 妙な疲労感を漂わせながら雲水はドアをくぐる。玄関の外の灯りがついていないところをみると両親はまだ帰ってきていないようだ。居間の窓からは光がもれていたから阿含はいるのだろう。屋内から見えない部分の灯りは、つける習慣がないと、つい忘れてしまう。家人が帰宅したときに明るく出迎えたり防犯という意味のある電灯なのだろうが、電気代がもったいないような気もする。母のように寝る前に消す習慣もついてないから、昨日などは朝までつけっぱなしだった。廊下にあるスイッチの前で雲水はしばし立ちどまり、今夜は両親が帰ってくる予定だから日が長い季節とはいえ暗いと寂しいだろうと思い、外の灯りをつけた。
 腹が鳴る。
「今日の晩飯はなんだ……?」
 ここ数日の食事を思いだして雲水はげんなりした顔になった。焼肉で始まって、翌日は板前が目の前で揚げてくれるような天ぷらの店に行き、その翌日は大量のケンタッキーフライドチキンである。べつに嫌いではないしとても旨かったけれども、脂っこい料理はもう勘弁してほしい。
 悄然と廊下を歩いていたら台所の入口にある電話が鳴った。
「はい金剛です」
『雲水? お母さんだけど』
 なぜ帰宅するべき時間に電話をかけてくるのか。嫌な予感が胸を覆う。
「父さんの携帯つながらないから心配してた」
『ああ、しばらく充電してなくて電池切れですって。肝心なときに役に立たないんだから』
「帰ってくる……んだよね」
『それがね、もちなおしたと思ったのに、おじさんまた救急車で運ばれちゃって。日曜に延期』
「……そう」
『お金は足りる?』
「えっと、それは阿含にきかないとわからない」
『なんで阿含なのよ。あの子にお金もたせてるの?』
「……母さんが阿含に渡したんじゃないか」
『部屋の机に置いてあったでしょ』
「……」
『手紙と一緒に』
「……」
『……あらそう』
「うん……いくら?」
『一万』
「たぶん足りないと思う」
『あなたの口座に送っとくね。コンビニでおろせるはずだから』
「わかった。貯金あるし大丈夫。おじさんたちによろしく」
 かちゃん、と静かに受話器をおいた。ゆらり顔をあげて居間に向かう。


 阿含はだらしなくソファに寝っ転がってアクビをしながら、リモコンでチャンネルをぐるぐる変えた。睡眠不足である。夜は布団の中で脱がしたり触ったり弄ったり撫でたり舐めたりもうかなり好き放題にやっているのに相手はまるで目を覚まさず、どこまでやっても平気なのかを完璧に把握できてしまったくらいだ。今後にいかせるだろう。それでも肝心の部分を勝手に鑑賞しようとするとまるで生まれたての娘のおむつ交換をする父親のような問答無用の罪悪感に襲われてしまうため、暗闇でひとり百面相をしながら手をだしあぐねているのである。
「……いつまで若い父親モードなんだろ」
 むしろ中年のオヤジが「家族とセックスはできない」とかいって妻以外の女としか寝なくなるような感覚かもしれない。それはマズイと阿含は内心狼狽したが、よく考えたら雲水は“妻”とは違って本当に血の繋がった家族なのだから、ぜんぜん問題ないというか、最初から問題があるのだった。
 なにをいっているのか自分でもよくわからない。
 すーっと音もなくドアがあいた。ご本人の登場である。TVがうるさくて足音もなにもきこえなかった。
「おっかえり雲水」
「いくら残ってるんだ?」
 兄の顔には仮面のような笑顔が貼りついている。なんだろう、風向きが悪いようだ。
「……ただいまは?」
「ただいま。いくら残ってるのかときいてるんだ」
「ああカネ? もうねぇよ。むしろ赤字。でもそろそろ帰ってくんだろ?」
「一万円がなんで三食でなくなるんだ!」
 雲水の怒号がTVの音量を完全に圧倒する。阿含は眉を八の字にさげて上目遣いで答えた。
「あの内容なら当然だろ。そんな豪勢ってわけでもなかったじゃん」
「人間は一ヶ月食費一万円で生きるのも可能なんだぞ!」
「それ、ひとりの場合だろ」
「ふたりなら半月だ!」
「金じゃ幸せは買えねえんだぜ、雲水」
「持てる者の台詞だな。凡人は貧しさによって不幸になることが多いんだ。金に限らず」
「ぁんだそりゃ、当てこすりかよ」
「それもあるがそれどころじゃなーい! おまえ一万の重みをなんだと思ってるんだ!」
「てゆうか、なんで一万って知ってんの」
 雲水はその問いには答えず阿含の襟元をつかんだ。強引に立たせられ廊下に引きずりだされる。阿含は口の中だけで舌打ちした。両親と連絡でもしたらしく、手紙と金を隠匿したのがバレている。もちろん阿含に謝る気などさらさらなくて「だからなに?」の一言で済ますつもりでいたのだが、本気で怒っている兄に下手に逆らっても良いことがないのは身をもって知っていた。
「一万どっかで調達してこい。稼げるまで帰ってくるな」
「あぁ? てめーだって食いまくったくせに」
「おれが管理してれば三食でなくなったりしない! でもまあ五千円にまけてやる。駅前の工事現場なんか短期で働くのにちょうどいいんじゃないか」
「だれに向かっていってんだよ!」
「きっと似合うぞ、阿含」
 はだしのまま玄関の外に突きとばされ靴も投げつけられて、勢いよくドアが閉められた。ガチーン!と鍵がかけられる。
「ちょっとオニイチャン、冗談キツイんじゃねーの」
 低く呟いて玄関に思いきり蹴りを入れる。鈍い振動が響いた。数秒の沈黙。背後の道路を車が通過していった。そして訪れた静寂を縫うように、ドアの向こうでチェーンをかける音がした。
「ざけんな、コラ!」
 ドカドカドカドカ蹴り破るつもりでドアを連打した。急に暗闇がおりる。玄関の横にある灯りまで消されてしまったようだ。
「あっっっそ! もういいよ!」
 幸いポケットに財布は入れたままである。最後に玄関脇にあったポリバケツを蹴り倒し、阿含はとりあえず駅に向かって夜道を歩いていった。


 翌朝。
 雲水は空腹で目が覚めた。昨夜はありあわせのもので簡単に済ませたら、やはり足りなかったようだ。久しぶりにベッドで眠って今日こそは身体を休められるだろうと思ったのに、今朝も起きたらいつのまにか阿含が、あろうことか雲水に覆い被さるような形で全体重をかけて寝ているのである。しかも外出着のままだ。雲水はふたたび瞳をとじてこの現実をなかったことにしようとしたが、もちろん己とほぼ同じ質量がいきなり消失してくれるはずはないのだった。庭で野焼きしてしまおうか。
「阿含どけ、重い」
「ん゛ー」
 ベッドから落ちないように壁側に押しのけて、雲水は自由をとり戻した。油が切れたロボットのように関節がギシギシいっている。弟の部屋は窓の鍵が常時あいているので、そこから入ったのだろう。知っていて閉めなかったのは雲水だ。窓がわられることを怖れたからだが。朝からため息をつく。
「とにかく御飯……」
 床に足をついてベッドに腰かける姿勢で伸びをしたら、無防備になった腹に阿含の両腕が巻きついてきた。
「おぁよー」
「はいはい離せ」
「メシ買ってきた〜」
 阿含の指さすほうに目をやると、足元の床に白いビニール袋が無造作に置いてある。中身は発泡スチロールのパックに入ったテイクアウトの牛丼特盛ふたつと浅漬けらしいものひとつと割り箸2本だった。吉野家ではなく松屋にしてくれれば比較的あっさりしているのに。マメなのか雑なのか理解に苦しむ弟である。
「あっためて……食う……」
「だったら起きろ。冷蔵庫にタマゴあるし」
「お゛ー」
 袋の持ち手を指にひっかけて雲水はさっさと階段をおりる。台所で牛丼のパックを電子レンジに入れようとしたら大きすぎて、ふたつ同時には無理のようだった。仕方なく順番に回して、先に暖めたほうを自分の席に置く。冷めにくい入れ物だから大差ないだろう。
 どて、どて、という気だるい足音と共に弟が姿をみせる。
「ぉらよ」
 左手に握っていたものをテーブルに放りだした。くしゃくしゃになった紙幣である。確実に三万円以上あるようだ。雲水は眉をひそめながら一枚ずつ丁寧にシワを伸ばす。なにやら赤黒い飛沫が散っているようにみえるのは気のせいだろうか……?
「食おうぜ」
 何事もなかったかのように阿含は椅子に座った。雲水がテーブルに転がしておいた生タマゴを片手でわって殻を上に向けた牛丼の蓋にのせている。ちなみに雲水はどう練習しても両手を使わなければタマゴをわることができないのだった。こんなところにも才能の違いというものが表れてしまうのだなと苦々しく思うけれど、結果的にはタマゴを食べられるのだから、こだわる必要はないのだろうとも思う。ペットボトルの日本茶をグラスに注いで弟に手渡した。雲水も自分の席につく。
「いただきます」
「……おう」
 ふたりして無言のまま黙々と飯をかきこむ。視界の隅に何枚もの血なまぐさい紙幣がちらついて落ち着かない。自分が与えたミッションを達成してきたのだからなにかしらコメントしなければならないわけで、いろいろ言葉を選んでいるのだが、どうにも言いようがないのであった。それでも雲水は口をひらく。
「お金……ホントに調達してきたんだな」
「みりゃわかんだろ」
「うん。昨日はちょっと……おれも悪かった。ごめん」
「いーよ」
 でもだれが恐喝しろといったかそれともまさか強盗でもしたんじゃないだろうな働いて一万円を稼ぐのがいかに大変かを知ってほしくて家から叩きだしたのにこれはないだろう馬鹿いやしかし充分予想された事態だからそんなことを要求したこちらが悪いんだろうわかったもう余計なことはいわないように気をつけるよだからおまえも少しは自重してくれ、頼む。
「……」
 雲水は数々の言葉を胸の奥底に葬った。
「父さんと母さんが戻るのは明日の予定だって」
「へー。じゃあ晩飯は?」
「今日は学校休みだし部活は午前中からあるけど4時までだし、作る」
「手伝ってやるよ」
 阿含はこの日程を非常に前向きにうけとめたようである。一緒にスーパーまで食材を買いにいく気まんまんだ。ずっとベッタリくっついているつもりらしい。喜々とした笑顔を浮かべている。べつに兄弟で仲良くすること自体は雲水も楽しいし否定などしないのだが、なんというか、勢いにのまれてしまう。
「部活にでるなら手伝わせてやってもいい」
 阿含の意識を他のことにそらしたくなって、少しでも興味をもっているはずのことを目の前に置いてみた。すると意外なことに、即座に断らず迷うような様子をみせているではないか。今度は自分の顔に明るく晴れやかな笑みが浮かんだのを雲水は自覚する。
「だいぶ新入部員たちも慣れてきたし、おまえにも面白いんじゃないかな、部活」
 雲水の様子をみて阿含はしばらく固まっていたが、やがて咳払いして首を縦にふった。
「しょーがねーな、おまえがそこまでいうんなら」
「そうか!」
 ニコッと笑いかけたら、作りは同じなのにまるで似ていない顔がニヘラ〜という笑みで応えてくる。いろいろと問題行動が多くて暴力的な阿含を本気で怖れている者も老若男女いるようだが、雲水にとっては幼いままの弟でしかない。血をみるほど他人を殴るのなんていつものことだし、中学になってからはいつ妊娠させたり病気をもらってきたりするかも心配で、周囲がフォローしても毎日がトラブルだらけである。無論いずれは自分ですべてうまくできるようになってもらわなければならないが、それには時間がかかりそうだから、少しずつ大人になる手助けをしつつも今は面倒をみてやらなければ、と雲水は兄としての義務感にかられているのだった。
 気がつけばふたりとも箸が止まっていた。
「冷めるぞ」
「おう」
 ふたりして食べるのを再開する。揺れる金髪の寝癖を眺めながら、まだまだ子供だなあと思った。



◆タロットカードでシナリオ作成!レポート

過去 …… 0 "The Fool":愚者(潜在力・純粋さ・未確立の自我・理想化・無責任)
現在 …… Swords10 "Ruin":破滅(現実逃避・机上の空論・無能な指導者)
山場 …… 11 "Lust":欲望(耐え難い欲望・行動力・野性的・あたりはばからない情事)
未来 …… Princess of Disks:慈悲深い・勤勉・保護・威厳・美しさ・浪費・打算的
支援 …… 6 "The Lovers":恋人(知性・直観・選択・代償・自己矛盾・不真面目)
敵対 …… Knight of Cups:優雅・感じやすさ・官能的・享楽的・意志薄弱・浮気性

→相手を理想化していた主人公は現実逃避していたが、感じやすいために傷つきながら直観を信じ、耐え難い欲望に身を任せたら、慈悲深い反応が返ってきた。

 いつのまにか一万ヒットを越えてました。皆様ありがとうございます。感謝感謝です。
 あいかわらずキリ番は踏み逃げされてばかりですが、たいていの方はスクロールしないとカウンターがみえないと思うし、自分でも滅多にみませんからね(というか自分でカウンターまわしたくないんで私はあのページ通ってないですよ。笑)。もし踏まれましたらお気軽にリクエストください、名無しでぜんぜん構いませんので〜。
 双子の誕生日が近いですね(オフ会はこっそりレポ等を眺めて楽しみます)。更新したいですね。そして双子誕生祭に投稿したいですね。遠い目をして頑張ります。




●メルフォ or 拍手コメントへのお返事
>雲水の夢が支離滅裂で
 拍手ありがとうございます、今回はいまいち不評(?)というか拍手が少なかったので、嬉しいです。夢といえば深層心理を垣間みせるものとして使い勝手がよいですよね。本人も自覚してない隠された本心だったりすると萌えますよね。雲水は和風な庭で遊んでてほしいです。金魚とか似合います。花は季節柄ツツジで。阿含は中華な亀で(意味不明)。ふたりで花札賭博なんかしてると面白いです。夢といえば夢占いですが、フロイトはちょっとアレです。なにをいってるんでしょうか。お言葉とても励みになりました。今後も更新に努めます、ありがとうございました☆
(2005.05.27 追記)

>一番日常的で、すごくリアルに
 二十日近く放置してすみません。もうお忘れかと思いますが、拍手ありがとうございます。リアルに描くのは……というか5W1Hが明確な場面の連続のみで話を進めるようにしているのは……自分なりに気を遣っている部分なので、お言葉すごく嬉しいです(抽象的に内面を描いていくような詩的な展開が単に苦手だという意味でもありますが)。1人称じゃないですしダイレクトに感情移入させるような書き方もいまいち得意じゃないので、せめて五感に訴えるようにしているつもりです。それがうまくいっているような反応をいただけてホッとしました。本当にありがとうございます。
(2005.06.17 追記)

>阿含がお風呂で 大発見する話
 阿含は天才ですから脳内でどんな変なこと考えてても違和感ないですしね! 雲水も天然だからどんな変なこと考えてても不思議じゃないですよね! タマゴの割り方は……うちの母がすごい不器用さんで、ふつうにできそうなことがうまくできないことが多く(生活していくうえでは支障ないレベル)、そういうのを難しく感じる人がいるんだ!という発見が日常的にあるんです。つきつめれば阿含が他人をみて「なんでそんなのができねーの?」と思うであろう気持ちもなんか理解できたような気分になります。具体的な事例をあげられると小説としては成功に近づけますし、良いネタ元なんです(笑)。
(2005.09.27 追記)

【 2005.05.22 up 『金剛兄弟書きさんに25(ふたご)のお題』→08:「その先にあるもの」  無断転載禁止  低温カテシスム 管理人:娃鳥 】  .


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送