戻せない知恵の輪



 たまに早く帰宅して、なのに兄が不在だったりすると、本当に落胆する。
「あんのハゲ、どこうろついてやがんだ」
 いまさらなんの遠慮もなく雲水の部屋に足を踏みいれ、机の上を確認した。携帯はないが財布や鍵は残っている。窓の外をみれば日が落ちかけていてロードワークには丁度いい時間帯だ。せっかくの春休みに他にすることはないのかと思う。とにかくじきに戻りそうなのがわかると阿含はようやく笑みを浮かべ、兄のベッドに勢いよくダイブした。すると身体の下からほんの小さな甲高い独特の衝突音が響く。阿含は動きを止めて一瞬だけ眉をしかめた後、床に手をついてベッドの下を覗きこんだ。音から連想した通りのものが転がっている。眉間の皺をますます深くしながら手を伸ばし、それを引っぱりだした。
 酒瓶である。透明なガラスに透明な液体が三分の一ほど揺らめき、中心には藁のような野草が一本。ズブロッカというやつだ。
「やっすい酒のんでんな〜」
 阿含は酒瓶を床の上に無造作に置き、自身はベッドであぐらをかいた。どうもピンとこない。雲水はわりと酒が好きだし量もいけるほうだが、ヨモギのような香りがするこのウォッカは明らかにかれの好みではないような気がする。だいたい酒はつきあいで嗜むものだと思っているタイプだ。嫌な痛みが心臓のあたりをちりりと走った。自分の知らない一面が兄に存在するという事実には我慢がならない。もちろん常に一緒に行動しているわけではないしずっとクラスも違うから、たとえば兄の周囲の人間関係なども把握しようがないが、どんなタイプの友人がいてどの程度の交流をしているかなんてのは想像の範囲内だ。自分たちの絆を脅かすようなものではない、だからどうでもいい(と思えるようになった)。でもこの酒は違う。想像がつかない。
「……」
 阿含は酒瓶のラベルに描かれた薄茶色の野牛としばらく見つめ合い、いったん元の場所に戻したが、思い直して自分の部屋に運んでしまった。


 絨毯のアースカラーが視界一杯に広がったと思った瞬間、全身が崩れ落ちるのを感じた。雲水はそのままの姿勢で浅い呼吸をくりかえす。腕にちからが入らない。まだ普段の半分も回数をこなしていないのに、やはり疲労がたまっているのだろうか。幸運なことに体格に恵まれ体力も豊富なので、なかなか限界には至れないのだが。どうにかして身体を反転させると天井の蛍光灯が眩しかった。両手を上に伸ばして手の甲を並べる。利き腕だけを片手腕立てで鍛えるとそちらの袖が短くなってしまうのがおかしい。テニスの選手なども利き腕が長くなったりするらしいが、服はどうしているのだろう。腕を身体の横におろして瞼をとじる……。
「おい」
 脇腹に軽く蹴りを入れられた。目をあけてかなり驚く。いつのまにか弟が部屋にいる。
「おれには風邪ひくぞって説教するくせに、てめぇが床で寝んのはオッケーなのかよ」
 そういわれて初めて、全身の汗がひいて冷え切っているのに気がついた。しばらく意識が途切れていたようである。雲水は舌打ちしたくなった。そして身体を起こそうとしても指先ひとつ動かせないのを自覚し、内心焦りを覚える。阿含の脱色して黒く戻してまた色をのせたりして芯まで痛んでしまった髪が明かりに透けるのをみながら雲水は何度か藻掻こうと試み、じきにあきらめて全身のちからを抜いた。意識にも霞がかかっている。どうやら阿含はそんな目に見えない動きなど察知しなかったらしく、椅子に腰かけて足をぶらぶらさせた。夕食後すでに入浴も済ませたようで見慣れた灰色のスウェットに身を包んでいる。
「また筋トレ? よく飽きねーよなー、ってかマゾっぽい」
「……放っておいてくれ……」
 舌まで思うように動かない。おまけに喉から口内まで乾ききっている。雲水は少し咳きこんだ。
「ほら風邪ひいちゃうぜ、おにいちゃん」
 椅子の背もたれにかけてあったタオルが胸に投げつけられた。まったく反応できない。こんな状態の自分をみられるのは嫌なのでもう出ていってほしいのだが、残念ながら気持ちは通じないようである。仕方がないので雲水は再び瞳を閉じた。これで弟の姿を視界から消すことはできる。
「……なに、動けねぇワケ」
 阿含が大きく息を吐いて馬鹿だの阿呆だのと罵りはじめた。なんだかいつもと立場が逆だ。やがて机の上に用意しておいたペットボトルのキャップを回す音がする。
「ほしい?」
 薄く目をあけると、阿含が勝手に水を飲んでいた。もう怒りすら湧かない。みたび瞼をおろす。椅子をひく音がして白かった瞼の裏が暗く翳った。頭頂部あたりを手のひらで押さえられ、顔面にも暖かさを感じ、重ねられた唇から生ぬるい水が注ぎこまれたので、とりあえず飲み下す。おそらく自分たちは同じ表情をしているのだろうからそれはみたくなくて目はあけなかった。妙にゆっくりと時間が流れるなかで阿含のあたまが横に移動し、脇の下に両腕をさしいれられ必要以上に強く抱きしめられてから上体を引っぱり起こされる。なるほど大義名分があればこうして触れあっても問題ない、それはいい手だと思ってしまった。弟の手のひらも頬も唇も広い胸板も、すべて年単位で久しぶりである。もしかしたら無くても平気なのではないかと思いはじめていたが、じっさいに感じてみると、思い出よりずっと堅くてごつごつした感触に変化しているにも関わらず、それは存外心地よかった。あまりよくない傾向だ。阿含の腕が今度は両膝の裏を抱えこみ、身体ごともちあげられる。
「うわ、重!」
 わずかな浮遊感のあと、いささか乱暴にベッドへと投げだされた。
「筋肉つけすぎだって!」
「……ああ、すまん」
「っとによー」
 阿含は仰向けになった雲水の下から毛布と布団を引きずりだし、身体の上にかける。さらに頭部をもちあげて枕を丁度いい場所にセットしてくれた。
「今日はもういいから寝ろよ、な」
「……わかった……」
 なんだか気持ち悪いくらい優しいのが気になったが、とにかく世話になってしまったのは事実なので、少なからぬ感謝の意をこめて雲水は返事をする。勇気をだしてようやく目をあけると、阿含はなぜか卓上ライトを机から床に移動させており、そのスイッチを入れてから部屋の明かりを消した。そして足元を照らすひかりのなかで本棚からアメフト雑誌のバックナンバーをとりだして広げ、雲水に背を向ける形でベッドに寄りかかってページをめくりはじめる。
「……阿含……?」
「あ゛ー?」
「……おやすみ」
「おう、おやすみ」
「……もう部屋に戻ってくれても構わないって意味だが?」
「えーだってぇ、おにいちゃんが心配だしぃ」
「戻れ」
「いやですぅ」
「阿含、」
「てめぇこそ寝ろよ、はいオヤスミナサ〜イ!」
 阿含の腕が横に伸ばされて雲水の足元をばんばん叩いた。顔は雑誌を眺めたままだ。どうやらなにか明確な意図があってここに居座るつもりらしい、なにを考えているのか。はっきりいって、とても困る。仕方がないので雲水は視線を天井に戻した。髪が不規則に跳ねた弟のシルエットが映っている。
 就寝前のこの時間が、雲水は大嫌いだった。とりとめもなく思考が広がってしまうからだ。今夜もまた眠れないのだろうかと思うと途端に気が重くなる。脳裏をよぎるのはすぐ隣にいる弟のこと、たとえば中学最後の試合で阿含が投げたパス……敵のプレッシャーが間近に迫るなかで腕をふりあげ、スローイングが半分くらい終わっている状態からターゲットを変更してみせた。きっと苦もなく自然にできることなのだろう。練習すれば真似できるようになるたぐいの技術だろうか、これは。雲水だってラッシュをうけてもパニックは起こさないしレシーバー陣の動きを把握して的確なパスを投げるのは得意だ、しかし誰もが目を奪われるような鮮やかなプレイを何気なく繰り出されてしまうと、日々の努力がまるで無駄であるような気にさせられてしまう。もちろん比べたって仕方がないはもうわかりすぎるほどわかっている。アメフトというスポーツの性質からしても違うタイプの選手を目指せばいいだけの話なのだ、同じチームで役に立つのが難しくても別のチームに居場所をみつけることはいくらでもできるはずである……弟と仲間でいられないという想像は身体を半分に引き裂かれるような痛みをもたらしたが。そして感情が追いつかないのも時間が解決してくれるだろうという確信があった。もう少し大人になれば己の性格を鑑みて間違いなくこの感情ともうまく折り合いをつけられるようになる。もう少しなのだ。阿含の才能をいちばんよく理解し、いちばん高く評価しているのは、双子の片割れである自分だという自信があるし、阿含のみせる成果をこころから喜べるようになりたい。いちいち相反する想いで半分に引き裂かれなくてはならないのは本当にもういい加減にしてほしかった。眠れないのもうんざりだ。さっき意識を失ったらしいから運動量を増やしたのは正解なのだろう、トレーニングにもなるのだから一石二鳥だと考えればいい。どうにもならないときはアルコールに頼っているが、旨く感じない酒を選んでいるとはいえ、もともと肝臓が強いので簡単に量が増えてしまいそうで怖かった。だいたい四月からの寮生活では個室ではないのだから酒をもちこむわけにはいかないのだ。春休み中に解決しなければならない。タイムリミットが迫っていると焦れば焦るほど意識が鮮明になり、どんどん睡魔が遠ざかっていく。
 ばさりと音がした。阿含が雑誌を閉じたようだ。すぐ横で立ちあがる気配がする。やっと帰ってくれるらしい、ちゃんと本棚に片づけていけと目を瞑ったまま思う。布団がめくられて急に寒くなり、肩と腰に手のひらの温度を感じた瞬間、ころんと壁のほうに転がされ、横向きにされた。そして空いたスペースに阿含の身体が乗りこんでくる。自分たちがシングルベッドで二人寝できる体格だとでも思っているのだろうか、この弟は。しばらくごそごそ体勢を模索したあと布団をかけて雲水にべったりと密着してきた。卓上ライトのスイッチを切る音がやけに大きく響く。雑誌は床に放置されたままのようだ。背中に温もりが広がる。
「……っ」
 不意に涙が零れたので、雲水は驚いて呼吸を止めた。どうやら自分で考えているよりずっと弱っているらしい。たしかにもう子供ではないのだからこんなふうに人肌に触れることは稀になったとはいえ、他人の体温にこうも慰められてしまうとは。しかし同時に、これは相手が誰であろうが等しく生じる条件反射的な感動だと冷静に見極める自分もいて、こういうところが他人との距離を広めにとってしまう原因なのだろうなと顔を歪ませた。そして雲水は呼吸を思い出し、慎重に息を吐く。
「寝れねぇの?」
 背後の弟がぼそりと呟いた。心臓がひとつ大きく鼓動を刻む。
「さっきからずーっと、何度も溜息ついてんじゃん。またくっだらねぇこと考えてんだろ」
「……くだらなく、など、ない……」
 そう紡いだ声は嗚咽混じりで明らかに震えてしまっていて、雲水は返事をしたことを後悔した。阿含が勢いよく起きあがる。
「マジ? なんで? おれのせい?」
 らしくもなく狼狽している弟の姿に、思わず吹きだした。笑ったつもりだったがしゃくりあげたような形になってしまい、ますます阿含が取り乱している。
「なあ雲水」
「……おまえの、せ、いだ……」
 雲水の腕に手をかけて肩越しに覗きこもうとしていた弟の身体がびくりと固まったのがわかった。雲水は深呼吸して、なんとか落ち着いた言葉を継ごうとする。
「おまえのこと、考えてる。でもそれは、おれが勝手に思ってることで……おれにしか解決できない問題だから、おまえが気に病む必要はなくて……おまえには関係ないんだ。……うん、ごめん……おまえのせいじゃなかった」
「あっ、自己完結しやがったな、この野郎!」
 無理やり仰向けにされて胸ぐらを締めあげられた。上半身が宙に浮く。服が伸びてしまいそうだと思い、いまなにを着ていたかをぼんやりと考えた。
「関係ないじゃねぇだろ! てめぇって奴はいつもそれだ、おれをなんだと思ってんだよ! あ゛ぁ?」
「……苦しいぞ」
「どうなんだっつの!」
「その質問には答えられない」
 急に手が離されて浮いていた身体が落下し、うけとめてくれたベッドのスプリングが軽く軋んだ。無言のままでいるよりはマシかと思ったのだが、あまり良い結果は生まなかったらしい。暗闇に目が慣れなくて阿含がどんな様子なのかよくわからなかった。
「……んだよ……」
 雲水は指先で襟をなおす。身体は相変わらず石のように重たいけれども、ちゃんと動くようにはなっていて、少なからず安心した。そしてこんな状況でも己の心配をしてしまった事実に自己嫌悪する。いつのまにか涙と嗚咽は引っこんでいた。
「わけわかんねーし……なんかムカつく。なんでやなことばっか、いうんだよ」
「そうだな、おれが悪いんだ。謝る」
「……」
「阿含」
「もう寝る」
「うん」
「ここにあった酒、おれが飲んじまったからな」
「……おまえは人のベッドの下まで把握しているのか……?」
 思わず呆れた声をだしたら、阿含は笑ったようだ。そしてまた雲水を壁際に追いやってベッドに横たわる。
「狭ぇ」
「当たり前だ。自分の部屋に行けって」
「おにいちゃんが心配なんデス、体調管理もできねえみてえだから」
「悪かったな……」
「今日だけ」
 暗くてやっぱり弟の表情がわからない。今度は身体の側面に温もりを感じる。半分に引き裂かれる。痛みに耐えながら隣に目をやった。もう静かになって微かな呼吸音しかきこえてこない。
「阿含、寝たのか?」
 返事はなかった。だから雲水は暖かい布団の中で手をさまよわせて弟の手を探りあて、そっと握りしめる。たぶんまだ眠ってはいないのだろうと思うが、そんなことはどうでもいい。阿含の体温から先ほどと同じ心地よさを得る。あれだけ睡眠を求めていたというのにこの時間を少しでも長引かせたいと願った。


 失敗したのだろうか? 阿含は街の雑踏を歩きながら昨夜の出来事を残らず反芻する。どうにも判断が難しかった。少なくとも思い通りにならなかったのは確かだ。いいたいことの半分も言葉にできなかった。
 駅前の広場では数人の男女がダンスの練習をしていた。そこは普段なら、ぬるそうな餓鬼どもがギターをかき鳴らして本当にウザイのだが、今日のダンサーたちはかなり本格的で観客の目もあまり意識してはおらず、暇潰しにするくらいの価値はありそうだった。阿含はわりと離れた石段に腰かけて、跳ね回る人間たちの動きを知覚の表面だけで認知する。すべてにおいて阿含は「静」よりも「動」を好み、それもまた兄とは正反対であるのを思い知らされて面白くないのだが、騒がしい人混みも暗い室内で響く大音響や光の渦もじつは神経をかなり逆撫でしてくれるものであって、快感であると同時に不快でもあった。そのガラスを引っ掻くような気に障る感覚が阿含と現実とを繋ぎとめているのだ。ダンサーたちはクローンのごとく一致した動作をくり返している。遺伝子の上では自分と兄はまさにクローンであるわけだが、かれらのように振る舞ったことなど一度もないし、これからもないだろう。阿含が根本的に変わることはなくても、雲水は変わっていってしまうのだ。
 軽く息を吐きだして嗤った。おそらく雲水も、自分は変われず弟は変わっていくと考えている。
「わかってねーよなー」
 どちらが? きっとどちらもだ。阿含は手のひらに目を落として昨夜の感触を思い起こした。手を繋いで眠るなんて自分たちはなにをそんなに怯えているのか。「変化」だろうか? それは確かに阿含が警戒しているもののひとつだ。あと数週間で阿含も雲水も高校生になる。それ自体が己を揺るがしたりはしないが、生活の変化は侮れない。決して油断はできない。なぜなら阿含は片割れをまったく信じていないからだ。いままでも信用していなかったし昨夜のおかげでさらに信用できなくなった。とりあえず寮では兄弟が同じ部屋にされるとは思えないので、まずその無理を通さなくてはならないだろう。
「おれはただ」
 ……まだダンスは続いている。反復される動きはセックスを連想させた。



◆タロットカードでシナリオ作成!レポート

過去 …… 11 "Lust":欲望(耐え難い欲望・野性的・あたりはばからない情事)
現在 …… Cups5 "Disappointment":失望
山場 …… Queen of Swords:寛大・理解力・自信・狡い
未来 …… Disks5 "Worry":心配
支援 …… Disks8 "Prudence":慎重
敵対 …… Swords8 "Interference":妨害

→耐え難い欲望に捕らわれているせいで失望する事態に陥っていた主人公は、慎重に行動して妨害と戦い、理解力のある態度を示してみたが、余計に心配の種を抱えることになってしまった。

 なんか今回は……方針が定まらないままダラダラ書いているうちに終わってしまった、みたいな……。
 ずぶろっか、まずいよね……? 化学的な薬品臭を感じてしまうのは私の味覚があかんのですか。

【 2004.12.10 up 『金剛兄弟書きさんに25(ふたご)のお題』→16:「chronic」(慢性の)  無断転載禁止  低温カテシスム 管理人:娃鳥 】  .


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