失われた記憶

2004/02/19 02:20 


 瓦礫のむこうでは、にぶく光る双眸がみどり色の輝きを放っていた。植野はギクリとして足をとめ、慎重に懐中電灯をめぐらせる。
 犬だ。
 中型の、おそらくは雑種と思われる。みるからに汚らしく、皮膚病を患ってるのか毛皮の一部が禿げかかっており、目やにが固まり、口からは舌がだらしなくはみだしている。植野はとなりに立つ岡山を肘でつつき、視線で注意をうながした。
「野良犬か……」
 カメラのファインダーから目を離した岡山の顔にも、緊張が走る。植野はタクティカルベストのポケットから縄跳びの縄をひっぱりだした。廃墟探索の危険のひとつとして野犬があげられることは知っていたが、じっさいに遭遇するのは初めてである。跳び縄をふりまわし、鞭のように犬の足元へと打ちつける。攻撃能力よりも音による威嚇に効果があるとの話だった。もういちど、跳び縄に風を切らせる。しかし野犬は身じろぎひとつせず、かといって襲いかかってくるでも尻尾をふるでもなく、ただ茫洋とこちらをみつめている。
「なんだこいつ。気味悪いな」
「岡山さん、ここの撮影はもういいですか?」
「ああ。こっちが移動すればいいか」
 まるで老人が歩くかのような速度で、瓦礫を踏みしめる。探索レポートを趣味でホームページに公開しているだけの植野と違って、岡山は写真集を出版したこともあるセミプロであり、値の張りそうな一眼レフのカメラを大切に首からさげていた。万が一にも転倒するわけにはいかないのだろう。地面には割れたガラスはもちろん錆びた釘のとびでた木材などがいくらでも転がっているので、下手をすれば命にも関わるのである。

 窓のある部屋に入ると、潮の匂いが鼻についた。割れまくったガラスの向こうには青い水平線が一望できる。ここは長崎県西彼杵郡高島町の海に浮かぶ巨大廃墟群、通称『軍艦島』と呼ばれる小さな島だ。明治時代から炭坑として良質の石炭が産出されたが、三十年ほどまえに閉鎖され、その後は無人島として放置されている。台風が毎年のように直撃する地点であり、建築物は風化の一途をたどっているようだ。廃墟愛好家のあいだでは有名なスポットで、その評判にたがわず外国の遺跡のような風景を堪能することができる。
 植野は眼下に広がる朽ちかけた街並みを眺めて、うっとりとため息をついた。最盛期には五千人という人口を数え、学校や病院、店舗や娯楽施設、はては寺院や墓場までが完備されたこの島は、じつに探検のしがいがある。ほかの場所のように浮浪者や暴走族が入りこんで設備を破壊したりスプレーで落書きすることもない、本当に素晴らしい廃墟だった。
 それなりに場数を踏んできた植野だったが、北海道の松尾鉱山も、神奈川の恵心病院も、山梨の小曲園も、愛知の巨大ボーリング場も、兵庫の摩耶観光ホテルも、和歌山の宇宙回転温泉も、広島ののうが高原も、佐賀の伊万里造船所も、この『軍艦島』のまえでは俄然色褪せてみえた。すべてはこの場所にくるための布石だったような気さえしてくる。
「ん?」
 港には植野と岡山が乗ってきた小型船が停泊している。そこからかなり離れたところにもう一艘の船影がみえたように思えた。放置された漁船かなにかだろうか。岩の影になっていて、よくわからない。床が崩壊する危険があるので、窓際にこれ以上ちかづくこともできない。岬にある端島神社には今でも供え物があるようなので、近隣の住民がお参りにきたのかもしれない。
「植野くん、下の炭坑部分にいってみたいんだけど」
「あ、そうですね。暗くならないうちに」
 曲がりくねった石の階段を、慎重に降りる。
「それにしても、いい廃墟ですよね」
「うーん、まあな」
「なんだか故郷に戻ってきたような懐かしい感じがします」
「そこまでいうほどかぁ? 俺は秋田の尾去沢鉱山のほうが好きだが」

 鳥居にも似た石の柱が等間隔に建ち並んでいる。コンベアの支柱であったものらしい。まるで古代ローマ帝国の遺跡のようだと植野は思う。岡山はシャッターを切りながら足をすすめ、植野もその後に続く。シャッターの音がとまった。
 支柱のしたに、汚れた犬がいる。
「いつのまに先回りしたんだ」
 犬は相変わらず、光る瞳でこちらをじっとみつめている。岡山とのあいだに少し距離を置いてみてわかったことだが、犬は植野にだけ関心があるようだった。そう気づいた瞬間犬はきびすを返し、地下へと降りる坑道のまえに移動した。そして植野がついてくるのをまっているかのように、また光る目をこちらに向けてくる。
「ど、どうする?」
「いってみましょう」
「マジかよ。なんか変だぞ! 犬だけじゃなくて、おまえも」
 コンクリートに囲まれた四角い空間が、どこまでも深く奥底まで続いている。ヘドロくさい湿った風が音を立てて吹きあがってきた。懐中電灯で内部を照らすと、いたるところが黒く変色しているのがわかる。濡れているのだ。植野はなんのためらいもなく、通路へと足を踏み入れた。
「やめとけって。いや、なかも撮ってみたいとは思うけどさ」
「岡山さん、ここでまっててくれてもかまいませんよ」
「そういうわけにもいかないだろ」
 廃墟探索で単独行動はあまり勧められない。もしケガをして動けなくなっても、だれも助けにきてはくれないからだ。探索中に浮浪者らしき遺体を発見してしまったこともある。いくら廃墟が好きといっても、長いあいだ放置されて腐乱死体になるのはいただけない。
 犬が坑道を先行する。底冷えする粘性の空気に誘われるように、植野たちは奈落へと降りていった。

 ほんのしばらくいったところで、犬は歩みをとめた。右側の扉に鼻をこすりつけ、ここを開けろといっているようだ。植野は滑らないよう気をつけながら足を速め、犬のとなりへと身をよせた。暗闇のなかでも犬の瞳は不気味に発光している。しかし不思議と恐怖は感じない。ドアノブはなにやら灰色の粘液にまみれている。イボつき軍手でノブをまわすと、あっさり扉は開いた。持参した三角形のドアストッパーで扉が閉まらないようにしてから、植野は部屋のなかに入った。岡山が犬のまえを小走りに通りすぎ、同じく入室する。
「なんだ、こりゃ」
 まず目についたのは、壁一面にペンキかなにかで描かれた、奇妙な模様だった。落書きなどではない。いままでみたこともない、妙に不安をかきたてるようなデザインである。
 室内は想像以上に広かった。奥のほうには事務机と本棚が並び、書類らしきものが床に散乱している。さらに懐中電灯をめぐらせると、テーブルらしき台のうえに人間サイズの固まりが立てて乗せられ、薄汚れたシーツのようなものを被せられているのがみえた。
 植野がシーツに手をかけようとしたとき、犬が甲高い声をあげた。部屋の入り口にいて通路の地上側のほうに顔を向けている。わずかな沈黙を破り、犬の視線の先から複数の足音と話し声がきこえてきた。犬は通路にでて、地下のほうへと走り去ってしまう。
 植野と岡山は顔をみあわせて、事務机のしたへと身を隠した。

「ここ開いてるよ。調べとく?」
「んー。この部屋は見取り図によると……どの辺だ?」
 声から判断するに、若い男女のふたり連れのようである。植野からでは足しかみえない。廃墟イコール心霊スポットであることも多いので、肝試し中のカップルだろうか。それにしてはふたりとも、植野たちと同じように鉄板入りの軍用ブーツを履いており、素人とも思えなかった。言葉の訛りがないので土地の者でもなさそうだ。ともあれ、息をひそめて経過を見守る。
「この模様、なんだっけ」
「見覚えあるよな」
 シーツをひっぺがす音がした。奇妙な沈黙がある。
「はは、ダゴンだよ、これ。ディープワンがいるんだ。帰りましょうか」
「それじゃ仕事になんねーだろ!」
「孕ませられたらどうするのよ。私たちの相手とは種類が違うんじゃないの?」
「ここまできて手ぶらで帰れるか! いくぞ!」
 シーツを床に叩きつける音に続いて、小さなため息がきこえた。ふたりはそのまま部屋をでて、通路を地下へと歩いていったらしい。足音が完全に消えてから、植野は事務机の外に這いだした。ライトをつけると、すでに岡山は部屋の中央に立っていた。
「なんだ、いまの連中。変なこといってたな。ダゴン?」
「……Dagonですよ」
 よく知っている言葉だった。それをきいた瞬間、植野には太古の記憶がよみがえった。遺伝子に組みこまれた本能とでもいうべき感覚であり、ようやく本来の自分を取り戻したように感じた。なぜこんな大切なことを忘れたまま生きてこれたのか、信じられない。

 テーブルのうえに光をあてる。かろうじて人間型のシルエットをしているが、下半身が退化して魚のようになった、両生類にも近い禍々しい怪物の彫像が、植野たちを威圧的にみおろしていた。偉大なる神の姿をかたどった像である。
 ダゴンに気圧されて立ちつくしている岡山の背後に忍びより、その後頭部を懐中電灯で思いきり殴りつけた。明かりが消える。しかし、この程度の暗闇ならいまの植野には見通すことができる。床に転がってのたうちまわる岡山に近づき、さらに腹部を踏みつけた。
 神には捧げものをしなければならない。
 腹を踏んだまま彼の足首をつかみ、ちからをこめて引いてみる。足のつけ根から簡単にちぎりとることができた。岡山が絶叫をあげる。血液が飛び散る音がする。うるさいので彼の足を棍棒のように振りあげて、顔のあたりに何度も打ちおろした。岡山は咳きこみながらうつぶせになり、這いずって逃げようとする。肩をつかんで仰向けにひっくり返し、骨のない腹にめがけて手刀を突きさした。皮膚を破り、暖かい液体に触れる。もう片方の手も穴に入れて、そのまま横にひき裂く。ながくつながった内臓を外に掻きだしているとようやく岡山は静かになった。
 植野は岡山のからだを彫像のまえに置き、ひざまづいてうやうやしくあたまをさげる。

 いつもの習慣でドアストッパーを回収し、植野は扉を閉めた。地下のほうに向かって歩く。濡れたモップを叩きつけるような足音が響く。全身を染める返り血のせいではなく、植野自身が粘液を分泌しはじめているのだ。骨格が少しずつ変化し、目と目の間隔が広くなり、鼻と耳が退化し、口が大きく横に広がっていく。手足の先が発達して指のあいだに水かきが生じる。からだの表面がみどり色のうろこに覆われていく。
 坑道は左右に分岐した。左から遠い物音と話し声がきこえる。先ほどのふたりがいるのだろう。右からは潮の匂いがした。植野は少し迷ったが、結局、右側の通路に足を向ける。すでにエラ呼吸をはじめているので、はやく水に入りたかった。
 自分をここまで導いてくれたあの犬はどこにいったのだろう。同族に違いない。会って礼をいわなければならない。光る瞳を探しながら歩いてみるが、残念ながらどこにもみつからなかった。ふたり連れの男女は敵だ。仲間に知らせなければ。
 しばらく進むと通路は水没する。植野は冷たい冬の海水に身を沈め、水かきを使って泳ぎだした。服がじゃまになり、水中で脱ぎ捨てた。入り組んだ坑道を抜けて海にでる。
 ひかりの粒が目に入った。みるみるうちに、星空のごとく無数に広がっていく。仲間たちの目が輝いているのだ。自分を受けいれるために出迎えてくれているのだとわかる。
 植野は安らかな気持ちで、ひかりに近づいていった。



コメント:あえてホラーです。このお題なら、ひねらねばなりますまい。
     岡山とは大嫌いな元上司の名前です。殺すの楽しいったら……(笑)。

参考:『廃墟の歩き方』『暗黒神話体系 クトゥルー』






 ディープワン(深き者ども)とはクトゥルフ神話における量産型モンスターです。そんな雑魚一匹ですら普通の人間にとっては驚異的で対処できないという世界でして……ほかの生物との交配が可能で人間やイルカなんかと子供を作ります、で、最初は母親側の生物に似てるんだけど成長するにつれてディープワンの特徴が現れてきて、やがて海に還ってしまうのです。という解説をしないと理解してくれない方が以前公表したときにはおられましたので……力不足で申し訳ありません。
 ジャンプで連載してた『地上最速青春卓球少年ぷーやん』の主人公が修行にいった島が、東京近海に設定されていましたけど、長崎の軍艦島をモデルにしていると思われます。あんな感じ。
 「光」というお題、ほかの参加者さんたちは光を希望とか幸福とかいった意味に解釈して書いてくるであろうことが充分予測できましたので、それとの差別化をはかり、善の属性がまったくない光で投稿してやろうと意気込んでました。それなりに成功。
 同時に更新した「break through」とリンクしていますので、よろしければそちらもご覧ください。


【 2005.11.18 up オリジナル 「失われた記憶」 お題目→『光』  無断転載禁止  低温カテシスム 管理人:娃鳥 】  .


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